2019年1月23日水曜日

「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」ほか

先々週、村上春樹の短編「納屋を焼く」を映画化した韓国映画「バーニング 劇場版」の試写を見せてもらい、その後、村上の原作と、ウィリアム・フォークナーの短編「納屋を焼く」も読み、ここで感想を書こうと思っていたのだけれど、ネットでこの文章を読んで、あまりに見事な分析なので、これ以上付け焼刃的なことを書いてもしかたないのではないかと思ってしまった。
https://france-chebunbun.com/2018/12/30/post-18156/
1ページ目が昨年12月にNHKで放送された「バーニング 短縮版」について。
2ページ目がネタバレありで「劇場版」について論じている。(ネタバレ注意)
短縮版は見ていないけれど、この文章によると、短縮版は村上春樹の原作の結末に相当するところで終わっていて、劇場版(というか、これが本来の作品)ではそこから先が1時間くらいある。つまり、短縮版というよりは長い予告編?
とにかく、この文章の2ページ目に書かれている「劇場版」の解釈が見事というか、試写でもらった資料に書かれていた評論家や大学教授の文章がどうにもピンと来なかったのだが、この文章が私が考えたことにかなり近く、しかもそれをさらに詳しく分析していて、参りました、という感じ。
ただ、ここに書いてあること以外に感じたことがいろいろあるので、そのうち書いてみたいとは思っている。

さて、今日は「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」の試写に出かけた。
スコットランドの女王メアリーは何度も映画化されていて、ヴァネッサ・レッドグレイヴがメアリー、グレンダ・ジャクソンがエリザベスの映画も70年代に作られていた(私は見ていない)。
今回はシアーシャ・ローナンのメアリーとマーゴット・ロビーのエリザベスで、アカデミー賞ノミネート女優2人の対決が見ものだが、2人は最後に初めて顔を合わせるだけで(ただし、ここは史実にはない創作)、それまでは両者が交互に描かれる。監督のジョージー・ルークはマイケル・マンの「ヒート」を念頭に置いていたようで、なるほどと思った。
イングランドの女王エリザベスと、スコットランドの女王でイングランドの王位継承権を持つメアリーの権力争い、という従来の見方を変え、2人のかわした手紙から読み取れる女王同士の連帯感、絆みたいなものを中心に描いている。黒人やゲイが登場するのは史実的にどうなのかと思うが、これも現代的な解釈なのだろう。
一番の見どころは大人の女性を演じるシアーシャ・ローナンで、「つぐない」、「ブルックリン」、「レディ・バード」、「追想」と、少女や未熟な若い女性のイメージが強く、大人の女性を演じるのは当分先かと思っていたら、いきなり来ました、大人の女の役。
15歳でフランス王太子に嫁ぐも死別、スコットランドに戻って再婚、というメアリーが生理になったり、性の喜びを体験したり、出産したりと、女性の肉体的な経験と変化をローナンが演じる。彼女のメアリーは最初から大人の女性として登場していて、以前のような若い女性のイメージとはかなり違っている。
一方のロビーは天然痘の後遺症で美しさを失っていくエリザベスを演じていて、メアリーが妊娠し、出産するときに、エリザベスはむなしく紙で赤い花をいくつも作っていく、という対照的な描写。
美人であり、女性としての経験を存分にして生きたメアリーと、王位を守るために女を捨てたエリザベスの対比が、最後の対決シーンで浮き彫りになる。ここはなかなかの見どころ。
この時代、まわりの男がみんなワル、というのは至極当然として、しかし、女性のメアリーやエリザベスを男社会の被害者的側面だけで描くのは少々物足りないという感じはあるし、メアリーとエリザベスの対比もそれほど新しくは感じないが、最後の対決シーンで「私はスチュアート家だからあなたより上」とメアリーがエリザベスに言うあたりに由緒正しい家柄の女王メアリーと、父親ヘンリー八世に母親アン・ブーリンを殺され、その後も苦労したエリザベスの下から這い上がる者の生きざまが垣間見える。貧しい中から上り詰めようとしたトーニャ・ハーディングを演じたロビーがエリザベス女王であることに大いに納得した。

同じ試写室で昨年暮れに「ヴィクトリア女王 最期の秘密」を見たが、ジュディ・デンチが20年ぶりにヴィクトリア女王を演じる上、監督がスティーヴン・フリアーズなので大いに期待したけれど、かなりな期待はずれ。デンチが20年前に「QUEEN VICTORIA 至上の恋」で演じた女王は最愛の夫を失い、従僕と精神的な愛で結ばれる話だったが、今回はその従僕も亡くなり、老いた女王がインドから来た青年を寵愛する。このインド人青年と女王の話は女王の死後、徹底的に証拠を消されていたが、今世紀に入って資料が見つかり、この映画ができたようだけれど、世界各地を植民地にしていた大英帝国の女王と植民地インドから来た青年の交流の描き方がどうにも偽善的で好感を持てなかった。20年前のデンチの映画ではそういう感じはなかったのだけれど(イギリスだけの話だったからだが)、今回は女王とインドの関係がきれいごとすぎる感じで、周囲に差別的な人がたくさんいました的なお茶の濁し方なのも納得がいかない。若き日の女王を描いた「ヴィクトリア女王 世紀の愛」もそうだったけれど、今世紀に入ってヴィクトリア女王を美化する傾向があるのだろうか。