2022年2月11日金曜日

「ウェスト・サイド・ストーリー」

スピルバーグによるリメイク 「ウェスト・サイド・ストーリー」を見てきた。

70年代前半、映画雑誌「スクリーン」の姉妹誌「シネ・ストーリー」という雑誌があった。ほんの数年で廃刊になってしまったが、そこに読者の映画評というコーナーがあり、高校生だった私は3回、文章を掲載してもらった。

その「シネ・ストーリー」最後の号だったと思うが、そのときの読者の映画評に掲載された「ウェスト・サイド物語」評に大きな衝撃を受けた。

映画評の筆者はジョージ・チャキリス演じるベルナルドに注目し、彼がシャーク団やジェット団の若者たちとは根本的に異なっていることを論じていた。

いわく、他の若者たちは対立していても本当の意味で憎み合ってはおらず、決闘のための話し合いをしたり、握手をしたりする。しかし、ベルナルドは違う。握手を拒否する彼は白人たちに怒りと憎しみを感じている。妹のマリアと恋仲になったトニーに対する激しい怒りもそこから来ている、と。

中学生のときに初めて「ウェスト・サイド物語」を見て以来、リバイバルのたびに何度も見ているが、こういう発想はなかったので、非常に驚いた。目からうろこであった。

確かにベルナルドは他の若者たちとは違っている。眼光鋭く、どこか暗い表情をしている。プロローグで壁にこぶしを押し付けるシーンが印象的だ。彼は本気で怒っている。他の若者たちはそこまで怒りや憎しみにとらわれていない。彼らの行動はゲームのようで、決闘の取り決めや握手はゲームの規則なのだ。

「ウェスト・サイド物語」でジョージ・チャキリスが大人気になったのもうなずける。彼のベルナルドは映画の中で抜きんでた存在だった。

チャキリスは舞台ではジェット団のリフを演じたというが、この映画のリフは明るく陽気なラス・タンブリンである。彼のリフには暗いところはない。ジェット団とシャーク団の対立がある種、ゲームのようなのはこのリフの屈託のなさによる。憎しみと怒りを胸に秘めたベルナルドとは対照的な人物だ。このリフに代表される若者の無邪気さが、マリアに恋したトニーに怒りを燃やすベルナルドによって悲劇に変わる。無邪気さと無縁なベルナルドは真に悲劇的な人物だ。

こうしてみると、「ウェスト・サイド物語」を名作にした要因の1つがジョージ・チャキリスのベルナルドであることがわかる。


「ウェスト・サイド物語」から60年後、スティーヴン・スピルバーグ監督がリメイクした「ウェスト・サイド・ストーリー」では、ベルナルドとリフの人物造形がかなり異なっている。

旧作ではマリアと結婚する予定のチノはベルナルドの腹心の部下で、2人の関係は兄弟のようだった。チノがトニーを殺したいと思うのは、マリアを奪われた以上に、兄貴分のベルナルドを殺された怒りの方が大きいだろう。ベルナルドがマリアをチノと結婚させるのも、マリアを手放したくないという気持ちがあるのではないか。アニタという恋人がいるが、妹のマリアにもどこか近親相姦的な愛を抱いている、そうでないとトニーへの怒りが説明できない気がする。

スピルバーグの新作では、チノは夜学で勉強する実直な青年で、シャーク団に入りたいと言ってもベルナルドに断られる。妹を将来性のある堅気の男と結婚させたいと思うのは兄としては当然である。こちらのベルナルドには妹に対する近親相姦的な愛はない。そのため、マリアと恋仲になったトニーへの怒りも、旧作のベルナルドに比べると弱い。新作ではむしろ、怒りが高じると人を半殺しにしてしまう暴力性がトニーにあることが悲劇の一因になっている。

新作のベルナルドには旧作のようなダークな面、白人社会に対する怒りや憎しみがそれほどない。その理由の1つは、新作では移民してきたばかりのプエルトリコ系の若者たちには未来があるように描かれているからだ。チノは夜学で勉強して資格をとろうとしているし、ベルナルドもボクサーという職業があり、アニタは洋裁店を持つという夢がある。新参者だからこその未来への希望である。

一方、ジェット団の若者たちはヨーロッパからの移民の2世3世で、成功した移民たちはとっくにスラム街を出ている。開発のためにビルの取り壊しの進むこの地域に住んでいる白人は成功できず負け犬となったヨーロッパ移民の子どもたちなのだ。

新作のリフは旧作のベルナルドを思わせるダークな表情をしている。彼は家族に恵まれず、悲惨な少年時代を送ってきたらしい。リフだけでなく、ジェット団の他の若者たちも未来のないプア・ホワイトだ。

旧作では非白人のプエルトリコ移民の方が虐げられた人々のように描かれ、その怒りをベルナルドが体現していたのだが、新作では悲惨な立場にいるのはむしろ白人の方になっている。

ただ、新作ではダークな表情のリフは旧作のベルナルドのような際立った人物にはなっていない。悲惨な生い立ちが暗示されるだけで、それ以上のものはない。決闘で刺されたあと、「ロミオとジュリエット」のマキューシオのようにふるまうのも、それまでの描写から見て必然性がない。

リフが拳銃を手に入れるシーンは彼の狂気が感じられるところだが、それも一過性にすぎない。

旧作ではトニーとリフの間にホモソーシャルな男同士の関係があって、それがトニーが怒りのあまりベルナルドを殺してしまう理由になっているのだけれど、新作ではこういうホモソーシャルな男同士の関係とか、ベルナルドの妹への近親相姦的な愛とか、そういった人間の情念みたいなものが決定的に欠けている。ベルナルドを殺されたチノの怒りも旧作ではベルナルドとチノのホモソーシャルな関係があるのがある程度わかるのだが、新作ではベルナルドとチノの関係が淡白に見えるので、トニーを殺すほどの憎しみが今一つだ(シャーク団の他のメンバーは意外と冷静)。このあたりは人間の情念を描けないスピルバーグの弱点だろう。


「ウェスト・サイド物語」はもとの舞台と映画化では歌の順番が違うなどの相違がある。スピルバーグ版は舞台に従うという話だったが、実際はどちらとも違うようだ。

舞台では決闘のあとに歌われる「クラプキ巡査の悪口」が旧作映画では前半になり、かわりに決闘のあとには「クール」という新曲が挿入された。

新作映画では「クラプキ巡査」は決闘の前の警察署のシーンで歌われ、「クール」も決闘の前にトニーが中心になって歌う。旧作で印象的だった「クール」を歌うタッカー・スミスの演じたアイスは、新作では歌もなく非常に影が薄い人物になっている。

体育館のダンスでは、トニーとマリアは裏の方へ行ってダンスするのだが、ここでなぜか全身を映さない。ダンスシーンで全身を映さないって、スピルバーグはミュージカルがわかってないのだろうか? デイミアン・チャゼルだったら絶対、こんなことはない。

そして、旧作ではブライダルショップでトニーとマリアが結婚式のまねをして歌うシーンが、美術館の礼拝堂のような場所でのシーンに変わっている。旧作ではここでアニタが2人が恋仲になったことを知るのだが、新作ではこれがないので、決闘のあとに初めてアニタが知ることになるのだが、これもどうなのだろう。

また、旧作ではこのブライダルショップでマリアと女性たちが歌う「アイ・フィール・プリティ」が決闘のあとに変更され、まだ何も知らないマリアが勤め先の清掃係の仲間たちと歌うようになっている。決闘のあとに明るいシーンを入れているのだが、新作も旧作同様、決闘の最後に弔いの鐘を鳴らしているのに、そのあとにこの歌はないと思うのだが。

そして、きわめつけは、リタ・モレノが歌う「サムウェア」。トニーとマリアはこの歌をまったく歌わない。リタ・モレノは製作総指揮なんだが、だからって、うーむ。なんか違うだろ。


というわけで、開発のために町が破壊される冒頭のシーンからしばらくはよかったのだが、だんだん疑問を感じてしまった映画だった。

全体に、ダンスシーンが旧作ほどキレがないし、映像的にも旧作の方が魅力的だった。

マリアのレイチェル・ゼグラー、アニタのアリアナ・ディボーズは歌は抜群にうまく、全体的に歌は遜色ない。歌のハイライトと言うべき「あんな男に、私は愛している」は両者の歌唱力でみごとなシーンになっている。ただ、マリアが若者たちに怒りをぶつけるクライマックスからラストはナタリー・ウッドくらいの演技力がないと苦しい。


というわけで、スピルバーグなので無難にできているので、旧作に比べてひどい出来ということはないのだが、欠けているものの大きさも認識せざるを得ない出来栄えだった。

IMAXで見たのだけど、年配のシングル客がほとんどだった。若い人は吹替えを見るのだろうか。