2023年6月4日日曜日

裏腹なタイトル「ウーマン・トーキング 私たちの選択」ネタバレ大有り

 金曜日に台風の中、「怪物」を見に行き、映画の中も台風だったのだが、「怪物だーれだ」と子どもたちが言う予告編を見たときは、本当に怪物なのは誰か、というテーマなのだと思った。

が、それはまったく違っていた。この映画については別記事でネタバレ全開で書く予定。

そして日曜日、今度は「ウーマン・トーキング 私たちの選択」を見に行ったのだが、これまた「ウーマン・トーキング」(原題はWomen Talkingと、女性が複数形)というタイトルとは裏腹なテーマがあると気づいた。


タイトルは「怪物」だけど、怪物じゃない。

タイトルは「女性が話し合う」だけど、それだけじゃない。

女たちは話し合える。でも、女たちは男たちとは話し合えない。少なくとも、この村では。

そういう内容の映画なのだ。(以下、ネタバレ全開です。)


アカデミー賞脚色賞受賞なのだが、始まってからしばらくは、脚色賞受賞がどうにも納得できなかった。そんなに脚本うまい?と思って見ていたのだが、映画が進むにつれて、村の実情や女性たちの置かれた立場が少しずつ明らかになっていく。2010年に設定されているけれど、とても21世紀とは思えない、いや、20世紀後半でさえないような世界で、ボリビアで起きた実話をもとにしているというが、せりふは英語だし、登場人物も英語圏の人々として描かれている。ただ、南十字星が出てくるので南半球、となるとオーストラリアか? おそらく架空の国なのだろうが、現代社会とは完全に隔離された特殊な村が舞台。

そこでは一部の男たちが村の女たちを眠らせてレイプするということが何年にもわたって行われていて、悪魔のせいということにされていたが、ついに犯人が見つかり、レイピストたちは全員逮捕される。それで村の他の男たちが保釈金を集めて持っていくために2日間、村を離れ、その間、女性たちがどうするか、赦すか、戦うか、村を去るかについて話し合う。

で、赦すという人は少なく、戦うか去るかの選択になるのだけど、その話し合いの中でこのような事件が起きてしまう村の悪い構造に女性たちが気づき、「赦す」とはどういうことか、それはただ許可していただけなのでは、ということにも思い当たる。

最終的に女たちは去ることを選ぶが、この過程の中で、女たちはこういうふうに話し合って決め、このような悪しき男社会を変えるには少年を教育する必要があるということにまで思い至るのだけど、彼女たちには男たちと話し合うという選択肢はない。

それは無理なのだ。もともと女は無学でいい、女は黙ってろ、な世界なのだが、それ以上に、彼らはレイピストのために保釈金を用意するような連中なんである。普通だったら、あいつらは刑務所にぶち込んでおけ、となるのに、保釈金を作ろうとしているのだ。レイピストを許しているのである。

すべての男ではない、と言うけれど、この村に限っては、すべての男、なのである。

ただ一人、村から追い出されたあと、最近戻ってきた男だけが女性たちの信頼を得て、書記の役割を果たす。彼は母親がリベラルな人で、彼自身もリベラルなのだ。少年を教育することが未来をよくする、と彼は言う。

もっとも、最初のうちは彼も、何か言おうとすると黙れと言われてしまう。男たちとは話し合えない、という意識が女性たちには強いのである。

もう一人、自らの意思で口をきかない人物がいる。10代のトランス男性で、幼い子どもたちの世話をしているが、口をきこうとしない。女性たちはそのトランス男性のことを男と認めていないのだ。しかし、女性の一人が彼を男性名で呼ぶと、彼は口を開く。女性たちが村の男たちと話し合えないと思っていたように、トランス男性は女性たちと話し合えないと思っていたのである。

このあたりで、これはすごい、やっぱり脚色賞、と思った。もっとも、原作を読んでいないので、原作どおりなのかもしれないが。

村を去る女性たちは外の世界に希望を見出している。映画のなかほどで、外部の男性が国勢調査のために村へやってくるシーンがある。1960年代に大人気だったモンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」を大音量でかけて車で来るのだが、通りすがりの2人の少女に話しかけるとき、ミラーに映った彼の顔はやさしい。外の世界には女と話し合えるまともな男たちがいる、ということだろう。

この「デイドリーム・ビリーバー」はエンドロールでも流れるが、これが皮肉で使われているのかどうか、ちょっと迷った。でも、改めて思い出してみると、これは外の世界の希望を表しているのだという気がする。外の世界にもいろいろあるが、あの村よりは相当ましなことは確かだ。

女たちの話し合いがやや教条的になったり、教育的なテーマが出てきたり、というところがイマイチな感じもするけれど、上にあげたような細かい部分が非常に生きているのだ。