カンヌ映画祭グランプリのインド映画「私たちが光と想うすべて」。
月曜の朝に午後の回を予約。ここは予約はQRコードを入口で見せて入るので、スマホのない私はいつも印刷して持っていく。が、ここで大問題! QRコードだけ、印刷されない。文字は印刷されるのに。
うちのプリンタはWindowsXPから使っている。パソコンを7にかえたとき、ドライバを入れて継続使用。が、次の10ではドライバがうまくインストールされず、印刷はデータを7に移してやっていた。
ひょっとしてもう15年選手くらいのプリンタ。先日、ヨドバシカメラにプリンタをネットで注文、お取り寄せでまだ連絡がないが、新しいプリンタを買うのでついにお役御免かと壊れたか、プリンタ、と思ったが、QRコード印刷できない、でググるといくつか回答があり、出てきた解決策を試した結果、どうやら7のパソコンの不具合であることがわかった。そういや、このパソコン、最近動作がおかしいことがある。
そんなわけで、セブンイレブンのマルチコピー機にメディアを持って行って印刷。初めてなのでうまくいくか心配だったが、無事印刷完了。
そして、映画館へ。
大好きな「はじまりのうた」がリバイバル上映されるようです。
「私たちが光と想うすべて」。
ムンバイの病院に勤務する3人の女性の物語。ルームメイトになっている若い看護師2人。プラバは夫がドイツに出稼ぎに行ったきり、音信不通になっている。彼女より若いアヌは、ムスリムの男性とつきあっているので、悪い噂が立っている。そして、食堂で働く年配女性パルヴァティは夫に先立たれ、長年住んだ家を追い出されようとしている。
プラバは親の決めた見合いで結婚し、すぐに夫はドイツへ出稼ぎ。最初はひんぱんに連絡があったが、しだいに音信不通になっていったらしい。ドイツ製の炊飯器が送られてくるが、これが夫からのプレゼントらしく、彼女は足の間に炊飯器を抱きかかえる。親の決めた見合いなので、恋愛を経て結婚したのではないが、夫への性的欲求があるようだ。
アヌも田舎の両親から見合いをしろと言われている。ヒンズー教徒の多いインドではムスリムとつきあう彼女は白い目で見られていて、親に知れたら大変だ。
そしてパルヴァティが家を追い出されるのは、不動産業者がタワマンを作るため。タワマン建設現場に「富裕層の特権」みたいな看板が立っている。
こんなふうに、インドの抱える問題、女性が自由に恋愛したり結婚したりできないこと、ムンバイへ、そして外国へと働きに出なければならないこと、宗教差別、貧富の差、といった背景が描かれる。
映画はムンバイの庶民たちがごった返す街の風景をリアルにとらえていて、そのにおいさえ感じられるようだ。
(以下、ネタバレ。)
しかし、後半、プラバとアヌがパルヴァティの海辺の故郷へ行くと、話の中心がプラバの夫への想いに変わっていく。溺れた男をプラバが心臓マッサージと人工呼吸で生き返らせると、村の人は彼が彼女の夫だと思う。どうもこの辺からプラバの幻想になるようで、溺れた男は夫になり、「工場のきびしい労働の中で、いつもきみを思っていた」みたいなことを言うのだ。
ラスト、アヌがムスリムの恋人をプラバとパルヴァティに紹介し、4人がテーブルにつくと、真ん中に1人分の席があいている。そこはプラバの夫が座る席なのだろう。
最初の方で、夫の幽霊が出てくると言う女性が登場するが、それが伏線だったのだ。
こんなふうに、ムンバイのリアルな生活、女性たちの置かれた状況などが描かれた前半に比べ、後半はプラバの夫への愛と、夫がいずれ帰ってくるという希望(願望?)という、個人的で小さな話になってしまった感が否めない。前半の社会問題は飾りだったのか、と思ってしまうくらいの落差がある。後半の物語がよくある話で、こぎれいにまとめてしまった感が強い。とても美しいラストシーンではあるのだが。
「私たちが光と想うすべて」というタイトルは、「私たちが希望だと思っているものはこの程度のもの」ととれる。英語では「私たちが~するすべては~」というのは、「私たちが~するのは~だけ」という意味で、英語のタイトルがそれを連想させる。確かにこの映画には希望は少ない。前半だけだったら本当に少ない。が、後半を入れることで「それでも希望がある」というポジティヴな印象で終わるわけで、これもまた、よくあるやり方で終わらせたという感が否めないのだが、この辺が賛否両論あるところなのだろうと思う(英語のサイトでは酷評も少なくない)。