2018年8月31日金曜日

「ライ麦畑で出会ったら」&「運命は踊る」(ネタバレあり)

久々、試写に出かけ、「ライ麦畑で出会ったら」と「運命は踊る」を見る。どちらも重要なところまでネタバレするので、注意してください。

「ライ麦畑で出会ったら」の原題は「Coming Through the Rye」。言わずと知れたロバート・バーンズの有名な詩で、これに曲がついたのが日本では「故郷の空」という、全然違う内容の歌詞の歌になっているが、それよりも有名なのは、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」のタイトル「The Catcher in the Rye」が、主人公のホールデン・コールフィールドが「Coming Through the Rye」をこう勘違いして覚えていたという設定になっていること。妹のフィービーに「お兄ちゃん、それはライ麦畑でめぐりあいっていうのよ」とかなんとか言われていた(はるか昔の記憶)。
というわけで、ホールデンが間違えた詩のタイトルをそのまま題にしたこの映画は、1969年、アメリカの高校生ジェイミーが「ライ麦畑でつかまえて」を舞台劇にしたいと思い、サリンジャーの許可を得るために彼を探す旅に出る話。
試写状もらったときは、今度はこれで来たか、と思いましたよ。
サリンジャーは映画が嫌いで、自作の映画化を絶対拒否していたので、「ライ麦畑」も映画化されてないし、できない。だからってわけじゃないけど、これをモチーフに取り入れた映画が時々出てきていた。で、今度は映画化じゃないけどサリンジャーを登場させるのか、演じるのはクリス・クーパーだ。まあ、サリンジャーという人自身には著作権ないしなあ、と、あまり期待しないで見に行った。
ところが、プレスを見てびっくり。監督のジェームズ・サドウィズは1969年、高校生のときに、本当に「ライ麦畑」の舞台劇化を考え、サリンジャーを探しあてて、会うことができたというのだ。
だから、映画はほとんど自分の体験をもとにしている。
主人公の名前ジェイミーもジェームズの愛称。ただし、ジェイミーというのは子供っぽいというか、女性の名前と見られるので、高校生にもなってジェイミーを名乗っている彼は女っぽいやつと見られ、いじめの対象にもなり、そんな鬱屈とした思いからホールデンに自分を投影することとなり、自分こそホールデンだ、と思って、サリンジャーを探しに行く。(ちなみに、スピルバーグの「太陽の帝国」では主人公の少年ジェイミーは途中でジムと呼び名が変わる。)
ジェイミーに同行するのは、高校の演劇で知り合った少女ディーディー。ホールデンの幼い妹フィービーが高校生になったような感じで、未来のミライならぬ未来のフィービーか。
2人がサリンジャーが住んでいるはずの地域へ行くと、そこの住民はみなサリンジャーなんて知らないと言う。だが、どうも、彼らは嘘をついてサリンジャーを守っているようなのだ。サリンジャーに会いに来る人たちを快く思っていないのである。このあたり、サリンジャーの人望なのか、地域の連帯なのかはわからないが、クリス・クーパーのサリンジャーは感じがよかった。
しかし、運よくサリンジャーに会えたジェイミーは舞台化の話をするが、サリンジャーは、才能があるなら自分の話を書け、と言い、許可はしてくれない。自分こそホールデンだと言うジェイミーに対し、きみは違う、と言う。
サリンジャーの言葉は、実際に監督が本人から聞いた言葉にもとづいているのだと思うが、いちいち納得できることばかりである。映画化や舞台化をしたら、ホールデンもフィービーも別人になってしまう、と彼は言う。作品も別物になる、と。それはまったくそのとおりで、舞台化や映画化をする人のバイアスがかかり、演じる俳優のイメージがついてしまう。私自身は映画と原作のケミストリーみたいなものが大好きなので、映画化大賛成なのだが、それでも、映画化によって原作と違うイメージが独り歩きするのをいくつも見ていると、考えてしまうところは多い。その最たるものがボリス・カーロフの「フランケンシュタイン」であり、オードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」だ。カーロフの「フランケンシュタイン」は映画としてはすぐれており、原作のエッセンスを失っていないが、「ティファニーで朝食」は原作者カポーティに徹底的に批判され、実際、原作とはテーマから何から別物になってしまっているのだが、映画自体は原作から離れて愛されてしまっている(実は私も映画は映画で、好きだったりするのだ)。
E・M・フォースターも映画が嫌いで、映画化を拒否し続けていたが、「インドへの道」を映画化したいデイヴィッド・リーンのアプローチがあり、死の直前には軟化していたとのことで、死後にリーンが映画化、その後、アイヴォリーなどによって次々と映画化がされた。ただ、フォースターはサリンジャーとは違って、舞台化は許可していたので、拒否の理由はサリンジャーとは異なっていただろうと思う(ハリウッドを信用してなかったらしい)。
というわけで、自分の作ったものに他の人のバイアスがかかるのを拒否したサリンジャー、というのがよく伝わってくる映画であり、自分自身の物語を語るべきという創作者のあるべき姿に主人公が気づく物語になっている。その過程で、ベトナム戦争へ行った兄のこと、大学へ行けるかどうかが戦争に行くかどうかの分かれ道だった当時のアメリカ、そのことがトラウマになっているジェイミーといった、時代を浮き彫りにするドラマが登場する。ホールデンが自分を語ったように、あなたも自分を、兄のことを語りなさい、とディーディーが諭すシーンがよい。
結末近くで誰でも知っている邦題「故郷の空」のメロディーが流れる。「故郷の空」は秋の空だと思うが、映画は紅葉の季節を背景にしている。ライ麦は春に収穫するからライ麦畑は出てこない。実際に監督がサリンジャーに会ったのは10月だそうだ。10月では紅葉が美しすぎるので時期をずらした、とプレスに書いてあったが、色の薄くなった紅葉の風景が映画の雰囲気によく合っている。サリンジャーに会った高校生、という特権的な経験がなければできない作品だけれど、この日までよく待ったなあとも思う。

「運命は踊る」はイスラエル映画で、ヴェネチア映画祭銀獅子賞受賞。
イスラエルの裕福な夫婦のもとに、兵役中の息子が戦死したという知らせが来る。失神する妻と、何も言えない夫。だが、戦死が誤報とわかり、妻は喜ぶが、夫は怒り狂い、すぐに息子を呼び戻せと強く訴える。このシークエンスでは音が強調されていて、音が不安をかきたてるようになっているが、その後のシークエンスではそういう音響効果はなくなる。
息子はラクダが通るのんびりとした検問所にいる。通る車の乗客を調べるが、まったく問題なし。それでもテロリストが通るかもしれないという緊張感はある。その緊張感は兵士よりはむしろ調べられる人々の表情に現れている。
兵士たちがすごすコンテナは沼に沈みかかって傾いている。沼を写す美しい映像とマーラーの音楽。
そして、誤解から、息子は車の中の無実の男女を殺害してしまう。
上官は事件をなかったことにするため、車ごと土の中に埋めてしまう。息子はそのあと、両親のもとに急遽、帰ることになる。ノートに父親と祖母の話を絵に描く息子。父は祖母のだいじな聖書を売ってしまった過去があり、それが最初の部分での父と祖母のやりとりを思い起こさせる。
原題のフォックストロットというのは踊りの一種で、ステップを踏みながら同じところをぐるぐる回るものだそうだ。この映画も元に戻るような仕組みがあちこちに仕掛けられている。
場面かわって、最初の夫婦に戻る。が、夫婦は別居していて、妻は夫を許せないでいる。理由は、夫が息子を兵役から呼び戻したために息子が死んでしまったからだが、死の原因はラストまで伏せられている。
妻と、訪ねてきた夫との間の会話の中で、従軍時代の夫がまったくの偶然から他の人を地雷で死なせてしまったことが語られる。夫にはまったく責任はないのだが、夫は罪の意識を感じている。
部屋には息子が絵を描いていたノートがあり、最後に描かれた絵が飾ってある。大きなレッカー車が乗用車を持ち上げている絵で、妻は車が自分で夫がレッカー車だと言い、夫は逆に自分の方が車だと言う。しかし、観客はわかっている、この絵が、息子が実際に見た光景だということを。息子の罪の証拠隠滅であることを。しかし、父と母は知らない。
ラストは最初のシーンの繰り返しである。そのあと、息子の死の原因がわかる。
非常に巧妙で、一筋縄ではいかない、簡単には説明できない映画だが、戦争をしていて、兵役がある国の異常な状態を表しているのは確かだ。沼に沈む斜めになったコンテナもそれを表しているようだ。イスラエルの右派の政治家たちがこの映画を国にとって有害だとし、国の助成金を出すべきではなかったとか言っているらしい。「万引き家族」の是枝監督も同じことを言われていた。日本は北朝鮮に似てきたと言われているが、イスラエルにも似てきたのだろうか。