2019年3月14日木曜日

「ROMA/ローマ」再見:完璧という名の欠点

先週土曜日に見たばかりの「ローマ」、あの音響と映像が気になって、また見に行った。
場所は前回と同じイオンシネマ幕張新都心。スクリーンは前回より大きい。が、広い分、音響が前回ほどすごくなかった。
それでも映像と音響のすばらしさは堪能できた。
映画館で見るとまったく退屈しない面白い映画で、周囲のお客さんも誰も寝ていないし退屈もしていないように感じるが、これを配信でノートパソコンの小さい画面で見たら、眠くなるかもしれないと思った。

二度目は映像に注目して見ていたが、主人公クレオの動きを横移動のカメラがとらえるシーンが多い。計算されたカメラワーク、計算された俳優の動きが手にとるようにわかる。すべてが監督の手の内にあり、まるで神の采配のようだ。音響ももちろん、計算され尽くしている。
この神の采配のような計算されつくした完璧な演出は、ストーリーやテーマやモチーフにも表れている。
クレオの前で裸で棒を振り回す武術を披露する恋人は、まさに竿を見せびらかしながら竿を振り回しているのであり、後半、クレオが逃げた恋人を探しあてたとき、彼は武術の先生や仲間と武術の練習をしている。そこで先生が目隠しをして片足で立つというむずかしいポーズを決めるが、他の人々はそれができず、クレオだけができる、というシーンがある。神の采配の調和を感じる。
そのあと、恋人はクレオを竿で脅して去ってしまうが、それからしばらくして、クレオがベビーベッドを買いに行ったときに恋人と仲間が銃を持って店に押し入るという場面に遭遇する。
ここはちょっと偶然がすぎると感じるのだが、恋人が竿のかわりに銃を持っているというのが象徴的で、竿も銃も男根のメタファーであるから、意図しているところは明らかだ。
また、大型車が狭いところに入ろうとして、ぶつかりながら入っていく、というシーンがあるが、ここも性交のメタファーと考えられる。
こんなふうにして、二度見るとさらに監督の意図が明らかになり、この映画が監督の意図どおりに、すべて完璧に作られていることに気づく。ここには偶然の面白さとか、偶然に見える面白さとか、どのようにでも解釈できるのでそれは観客に任されるという面白さが決定的に欠けている。
クレオが恋人に再会するシーンが偶然がすぎると感じるのは、こういう偶然の面白さが欠如しているので、都合よく再会させたと感じてしまうからだ。
それでもクライマックスの海のシーンでは、また泣けてしまった。
クレオと女主人の人生の危機が重なるように描かれ、2人がともに救われて新しい人生を歩むようになる、というストーリーの構図もまた、計算されつくした演出になっている。
「ローマ」に関しては、この計算されつくした完璧さをどう評価するかにかかっていると思う。
この完璧さをもって大絶賛するのもありだが、完璧すぎるのが欠点であり、偶発性を持つ映画に比べて深みがないという評価もありだと思う。
私は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」は完璧な映画だと思っているが、この映画には解釈が観客に任されている部分が多く、演出やカメラワークも計算されたようには見えず(実際は計算されているのだが)、その分、偶発性の魅力に満ちているように思う。
言ってみれば、「ローマ」はほころびのまったくない映画であり、映画には魅力的なほころびがある方が面白いと私は思う。
それでも「ローマ」は魅力的で、あの世界にひたるためにまた映画館に行ってしまうかもしれない。
神の采配による完璧さの中にひたるのもまた楽しい体験であり、この映画の完璧さにはゆったりとした安心感がある。(裕福な家の家族とメイドの話であり、社会背景もあまり描かれていない、という意味では「万引き家族」のような深刻さがないのである。)