2020年7月25日土曜日

「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」

フランソワ・オゾンの新作「グレース・オブ・ゴッド」をシネコンに見に行った。

シネコンのある4階から見た風景。映画の上映会があるらしい。スクリーンは手前の方。

午前10時から整理券配布となっているのだけど、三密回避のために整理券は相当少ないように見える。普通なら後ろに何人も人が立って見ているはずなのに、スタッフの姿しか見えなかった。

「グレース・オブ・ゴッド」は「スポットライト」と同じテーマをまったく別の角度と手法で描いた、なかなかの秀作だった。
「スポットライト」が神父の性的虐待とそれを隠蔽する教会を告発するジャーナリストの映画だったのに対し、こちらは被害者たちの立場から描く。
驚いたのは、主役である3人の被害者たちのエピソードがオムニバス形式のような手法で描かれ、最後に3人が一堂に会するという手法。数人の主役を同時に描く「スポットライト」とはまったく違う手法だ。
しかも、このオムニバス形式が効果的で、オゾンの脚本家・監督としての才能が発揮されている。
最初の2人アレクサンドルとフランソワは現在は裕福で安定した職業につき、幸福な家庭を築いているが、3人目のエマニュエルはトラウマや持病から安定した職につけず、よいパートナーにもめぐりあえず、すさんだ生活をしている。最初の2人も、アレクサンドルは性的虐待の被害が比較的軽く、家族の支援も得られているのに対し、フランソワは重い被害を受けた上、兄との間に確執がある。エマニュエルはさらにひどい被害を受けたのに、父親は冷たく、今は献身的な母も実は、という具合に、主役が代わるにつれて深刻な状況が浮かび上がるという設定だ。
「スポットライト」と同じく、この映画も1人の神父の犯罪だけでなく、それを隠蔽した教会を告発していて、さらに、教会だけでなく、信者である人々も見て見ぬふりをしていたという点を描いているのも同じだ。この最後の部分、特に、カトリックが生活の基本となっている人々にとって、事実を見つめることがいかにむずかしいか、事なかれ主義に陥る人々がいかに多いかということを描いているところが、どうも日本の映画評では触れられない感じがしてならない。
オゾンの映画では、教会を見限るフランソワと、間違っている教会を正すのが信者の使命と感じるアレクサンドルの対立が描かれる。
被害者の告白を受け付けることで事件を世に知らしめようとするのは、まさに、MeToo運動と同じだ。そして、それを否定しようとする人が少なくないのも同じだ。

現在発売中のキネマ旬報の星取評でこの映画を3人が評しているが、その中の某映画監督の文章は、映画を見る前からなんじゃこれはと思っていた。そして、映画を見た今、改めて読むと、全然内容を理解していない、見当違いもはなはだしい、ひどい評である。
変態神父をもとに神と人間の対立を描いてほしかったとか、神に対する冒涜だろ!
潔く罪を認め、って、あれは単にバカ正直なだけで「潔く」ではないだろ!
「変態神父許すまじ」なだけになってるとか、どこ見てるんだ! つか、こういう見方が性犯罪を軽く見たり、被害者をバッシングする元凶になってるんだよ!
映画監督として、人間として、どういう人なのかわからないので、言いたくはないのだが、ああいうフィルモグラフィの人が性犯罪の映画についてこういうこと書くのか、なるほど、と思わせるような文章。

ついでに言うと、キネ旬の2000年代ベストテン、外国映画に「ミリオンダラー・ベイビー」、日本映画に「それでもボクはやっていない」が上位に入っているのもどうかと思う。
「ミリオン~」は安楽死を肯定している映画で、しかも主人公は尊厳死を認められる状況なのに、それができなくて安楽死、という間違った内容で涙を誘っている映画だし、「それでも~」は痴漢冤罪を告発するのはいいが、痴漢という性犯罪がはびこっているからこその冤罪という視点が完全に抜け落ちている。この映画は性犯罪を軽く見たり、被害者をバッシングする方向に人を導く可能性の高い、非常に問題のある映画なのだ。

キネ旬の関係者がイーストウッドがやたら好きなのは別にいいのだが、00年代のイーストウッドの最高作「ミスティック・リバー」が他の2作より下っていうのが、日本のイーストウッド評価の現実なんだろうと思ってしまう。
なお、「ミリオンダラー・ベイビー」は個人的には好きな映画で、よい作品だとは思っているが、大学の授業で扱っているうちに、安楽死の肯定や、生活保護者へのバッシングの描写に問題があると感じるようになった。折しも、安楽死ビジネスで100万円以上もらって女性を安楽死させた医師が優生思想の持主だったことが報道されているので、なおさら、強く問題を感じる。