2020年8月18日火曜日

ヌードルスがトイレで読んでいた本

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」で少年時代のヌードルスがトイレで読んでいたのは、ジャック・ロンドンの「マーティン・イーデン」。
貧しい青年が上流階級の女性に恋をするという物語で、ユダヤ系移民の街では成功した家の娘デボラに恋する貧しいヌードルスの心境を表現している。
昨年、ディレクターズ・カットを見たときに気づいて、いや、ずっと前から気づいていたのだろうけど、ジャック・ロンドンという作家に1ミリも興味が持てなかった私は、その小説を読もうとはまったく思わなかった。
ロンドンの名前は小学校低学年の頃から知っていて、子供向けに書かれた世界名作全集に必ず彼の「野性の呼び声」が入っていたからだが、動物ものにまったく興味がなく、子供に人気の「シートン動物記」も読もうとさえしなかったくらいだから、ロンドンは私の頭からは完全に抜け落ちていた作家だった。
それが、ハリソン・フォード主演の「野性の呼び声」が公開されて、原作は犬と人間のいい話じゃないぞ、という話を聞いて、映画は見る気はないけど原作を読んでみるか、と思って、図書館で借りて読んだ。

いや、驚いた。犬と人間のいい話どころか、悪い人間ばかり出てくる。後半に出てくる唯一のいい人と犬の話ばかりが映画化されたり世に伝わったりしてるのだろうか。
飼い犬として何不自由ない暮らしをしていた犬が、使用人に売り飛ばされて、それからが苦労の連続。最後は野性の呼び声にひかれて、という話だった。

これでジャック・ロンドンにちょっと興味を持ったところで、「マーティン・イーデン」をイタリアで映画化した映画「マーティン・エデン」の試写状が届いた。
すごくすごく見たかったのだが、コロナ禍のせいで、最後に試写室に行ったのは1月。前にも書いたけど、試写室は狭い、換気悪そう、エレベーターに乗らないといけないところが少なくない。この映画の試写はまさにそのエレベーターに乗らないと行けない場所。試写の回数も少ないし、1席ずつ空けて入れていると入れない可能性も高い。ま、いいか、映画館で見れば。

というわけで、劇場公開を楽しみにしているが、その前に原作読んでおこうと、図書館でロンドンの本を3冊借りてくる。
1980年代に翻訳された「マーティン・イーデン」。白水社が復刻した。

ロンドンは短編がいい、と聞いていたので、これも。

そして、若きロンドンがイギリスの貧民街をルポしたノンフィクション。

「どん底の人々」だけまだ読んでいない。

短編集「火を熾す」は読みごたえがあった。特にボクサーを主人公にした「メキシコ人」と「一枚のステーキ」がよかった。「野性の呼び声」っぽいのよりこういう方が好み。

「マーティン・イーデン」もとても面白かったのだが、久しぶりにアメリカ文学らしい長編小説を読んだな、という気がした。
一応、専門にしていたイギリスの長編小説は、プロットがきちんとしていて、理詰めでストーリーが展開し、結末も、それまでの流れから必然的に導かれるものが多いのだけど、アメリカの長編小説というのはプロットがあまりきちんとしてないというか、ハプニングの連続というか、結末もそれまでの流れから導かれるというよりは、ああ、こう来たか、みたいに着地するような感じがするのだ。
昔読んだ英文学の解説書で、小池滋ら著名な英米文学者が英米小説について語る本があって、イギリス小説を「ノヴェル」、アメリカ小説を「ロマンス」と言って対比していたのが印象的だったが、まさにそれを実感した「マーティン・イーデン」だった。
「ロマンス」というのはもともとは散文物語のことで、「ノヴェル」=近代小説が誕生する前の散文物語。トマス・マロリーの「アーサー王の死」がその代表的な作品だけど、きちんとしたプロットがなく、エピソードが次々と続くだけ。全体にレベルが低く、この時代には散文物語は低級な文学だった。それが18世紀に内容も技法も高度な近代小説(ノヴェル)が誕生し、小説が文学の中心になったのである、てな話を数年前までは某私大で毎年講義していたんだよね。なつかしい。楽しかったな、あの頃は。
話がそれたが、「マーティン・イーデン」は極貧の家庭に育った主人公マーティンが独学で文学や他の学問を学び、上流階級の女性で大学出のルースと相思相愛になる。しかし、作家をめざすマーティンを彼女は理解せず、自分と結婚したければ堅い仕事についてくれというばかり。小説やエッセイを書いては出版社に送り、拒絶され、やっと採用されたと思ったら原稿料を払ってくれないとかいったエピソードにまじって、マーティンが知り合う貧しい人々やインテリの青年のエピソードが描かれ、という具合に、マーティンが出会う人々のエピソードで話が続いていく。マーティンが知り合う人々が魅力的でそのエピソードも面白いのだけれど、文学に造詣の深いインテリ青年のエピソードが心に残る。彼は非常にすばらしい詩を書いたが、それを出版するのを拒んでいた。マーティンはそれは惜しいと思い、出版社にこっそり売り込んで採用されるが、それを知らせに行くと、なんと彼は自殺していたのだった。これはマーティン自身の最期の伏線のようになっている。
ルースとは結局うまくいかず、作家としても行き詰まり、船の旅に出たマーティンが最後にとった行動。その描写はまるでリュック・ベッソンの「グラン・ブルー」のラストのようだ。

「ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語」で、ジョーが出版の条件について編集者とやりとりするシーンがあって、あれは現代の出版界の発想であって、当時の出版界ではああいう交渉はできなかっただろうと思ったが、「マーティン・イーデン」を読むとまさに私の想像どおりで、原稿料の保証さえなかったことがわかる。マーティンが腕力で原稿料を回収したり、別の出版社へ行ったら若い屈強な男ばかりで腕力では回収できず、一緒に酒を飲んでそれでお金はあきらめたりといったエピソードも面白い。昔のピカレスクの形式がそのまま20世紀初頭の物語になっているような小説だ。主人公はピカロ(悪漢)ではないが、イギリス小説ではピカレスクの形式が主人公が善人になり、ビルドゥングスロマンになっていったのが、アメリカ小説では主人公が善人のピカレスクがそのまま成立しているようだ(「ハックルベリー・フィン」とかもそうなんだけど)。