2021年9月11日土曜日

「ミス・マルクス」

 カール・マルクスの末娘、エリノア・マルクスを描く「ミス・マルクス」。

評判はあまり芳しくないし、この種の女性監督による実在の人物をフィクション化した映画は、「メアリーの総て」とか「アンモナイトの目覚め」とか史実を完全無視してフェミニズムの主張のために都合よく映画化しているものがいやだったので、この映画もそういう映画かもしれないという危惧があり、行こうかどうか迷った。

確かに映画としての出来はよくないけれど、上に書いたようなタイプの映画とは違っていたのでよかった。

父と母は愛し合っていた夫婦で、2人で社会のために戦ったと信じていたエリノアが、エンゲルスの隠し子とされていた男性がマルクスの隠し子だったと知ってショックを受けるところとか、興味深い。

ショパンの曲をロック風にアレンジした曲とか、音楽の使い方もなかなかのもの。映像にも渋い美がある。

エリノアは妻帯者のエドワードと恋に落ち、パートナーとなる。当時は離婚がむずかしかったので、事実離婚状態の人が別にパートナーを作るのはそれほど珍しくなかったが、この男、金遣いが荒く、エリノアの財産を食いつぶし、エンゲルスからも借金し、妻の死後に若い女性をだまして嘘の結婚をするとか、あまりにも問題が多い。周囲も忠告するのだが、エリノアは愛していると言って聞かない。

社会活動家として奮闘する彼女と、だめな男に入れ込んで別れられない彼女の二面性がこの映画の焦点で、「イギリスでは女性の権利が向上したけれど、それでも女性は男性に道徳的に依存している」という彼女のせりふはまさに自分のことだし、彼女が暗唱する「人形の家」のノラのせりふ「娘のときは父に尽くし、その後は夫に尽くし、結局は父から夫に移っただけ」というのも彼女自身のことだ。家を出たノラと違い、エリノアはエドワードを切れない。

映画のはじめの方で、エリノアがエドワードに、詩人のシェリーが革命家であり、早死にしなければ革命家として活躍したはずだ、と言う。シェリーの妻は小説家メアリ・シェリーであり、映画に使われた音楽のショパンのパートナーは小説家ジョルジュ・サンドだ。ショパンには「革命のエチュード」がある。

エリノアはエドワードがシェリーやショパンになり、自分がメアリやサンドになることを望んでいたかのようだ(もちろん、映画のフィクションだろうが)。

そういう考え方自体が、男性に依存している、わけで、そういう点でこの映画は一貫したテーマを持っている。

ラスト、服を脱ぎ、髪を振り乱して踊るエリノアは、ようやく解放されたかのようだ。彼女の好んだ言葉Go aheadとともに、理想と現実の落差を感じさせるが、これは「私を乗り越えて前へ進め」と観客に言っているのだろう。



ここには「ミス・マルクス」のポスターはなかった。

先日亡くなったジャン・ポール・ベルモンドの映画も公開予定。