2023年9月6日水曜日

「福田村事件」(ネタバレ大有り)

 もともと「福田村事件」と「こんにちは、母さん」はそれぞれ別の記事を書くつもりだったが、この2作のつながりに気づいてしまい、下にその記事を書いたけれど、やはりそれぞれについても書いておかねばならない。

今回、結末までネタバレ大有りで行きますので、注意してください。


「福田村事件」は事実をもとにしているが、登場人物はフィクションであり、彼らのドラマも当然、フィクションということになる。

事実を映画化する場合、次の3つの方法がある。

1 事実を忠実に描く。

2 事実をもとにしたフィクションとして描く。

3 事実からヒントを得た別のフィクションとして描く。

「福田村事件」はドキュメンタリー映画の森達也監督の初劇映画なので、1の方法も十分あり得たと思う。しかし、実際にとられた方法は2。これについては福田村事件の史実を伝える運動をしている人が批判しているという。映画を見た人がフィクションとして描かれた部分を事実と思ってしまうから、である。

これは「ボヘミアン・ラプソディ」などについても出た批判で、この映画は相当に脚色していたけれど、確かに映画を見て、実際にああだったと思ってしまう人がいた。

3は物語の舞台などもすべて架空の場所にしてしまうやり方で、これは完全に事実をもとにした別の話と観客はわかる。この方法だと、最後に虐殺が回避されるという結末にすることもできる。タランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は2と3の中間にある作品で、描き方がはちゃめちゃなのと、監督がタランティーノなのと、もとになった事件が非常によく知られているからできたことだ。

「福田村事件」は長い間隠されていた事件で、今でも知る人は少ない。関東大震災を背景に、朝鮮人差別、被差別部落問題、大正デモクラシーから軍国主義への時代、社会主義者への弾圧などの歴史が背景にある。

これらをきちんと見せたいのなら1だが、それをできるだけ多くの人に見せたいとなると、やはり2しかないと思う。1であればスターをそろえる必要はない。

というわけで、登場人物レベルでは完全にフィクションとして描かれていて、監督も事実をもとにしたフィクションであることを強調している。

出演者たちの演技が適材適所ですばらしいのだが、この映画はやはり脚本の力が大きい。そしてそこには欠点もある。

関東大震災が勃発するまでの前半は、とにかく情報量が多い。当時の状況をできるだけ多く入れようとしている。朝鮮人差別、被差別部落差別、部落解放と平等をうたう水平社宣言が前年になされたこと、朝鮮半島での日本軍による虐殺事件、村を牛耳る軍人会の退役軍人たち(彼らが自警団を組織する)、マスコミが煽る朝鮮人への恐怖、社会主義者や労働運動家たちの活動とそれを警戒する警察、日露戦争で夫がいない間に寂しさから不倫をしてしまう妻たち、等々、もうとにかく入れるものは全部入れましたというくらい、いろいろなことが入っている。

これらは4つのストーリーに分けられて描かれる。中心は福田村の人々の物語と香川の被差別部落民である薬の行商団の物語。それに社会主義者たちのエピソードと新聞社のエピソードが絡まる。

この登場人物たちのストーリーが、俳優の演技のよさもあって、非常に面白く、関東大震災まで長いのに飽きさせない。

この映画は本来は善良な人々が政府やマスコミの扇動、そして民衆のデマによって虐殺をしてしまう、というテーマなのだけれど、登場人物を見ていると、中心になるのはリベラルな人や村のはぐれ者になっている人が多い。

福田村だと村長や帰郷した元教師と妻、渡し船の船頭や彼と不倫する女性。村長や元教師は高等教育を受けたリベラルな知識人、船頭とその恋人はやや村八分的になっている人々。

香川からの行商団は前年の水平社宣言に共感する人が多く、朝鮮人への差別を言う仲間をたしなめる。特にリーダーの男は効くかどうかわからない薬を自分たちよりさらに弱い人々に売ることに後ろめたさを感じつつ、しかたないとも思っている人間だが、差別には絶対反対の平等主義者。全体にこの行商団の人々はリベラルで、いろいろ勉強している人たちという感じがする。そういう意味では、差別される立場にいるが、考え方は村長や元教師に近い。

社会主義者たちの方はちょっと描写不足な感が否めない。朝鮮人と社会主義者の両方が標的にされ、虐殺されたことを示すために登場させたのだろう。

新聞社は編集長がもともとは志の高い人物だったのに、世間や上からの圧力に負けて朝鮮人を悪者にする文章を必ず入れるようにと記者に指示する。記者はそれに反論したり、事実を書こうと努力するのだが、それは実らない。

この4つのストーリーが交互に描かれ、そして関東大震災が勃発、そして事件が起こる。

船頭と船賃のことでもめたのがきっかけで、行商団は朝鮮人と思われ、村人に取り囲まれる。駐在が、彼らが持っていた身分証明書が本物かどうか確かめに行くから、それまで待つように、と言うが、軍人会をリーダーとする自警団と村人たちは納得しない。元教師と妻、村長、船頭など一部の人が止めようとするのだが、聞かない。

そして、止めようとする人物がこう言う、「おまえたち、もしも間違っていたら日本人を殺すことになるんだぞ」

すると、行商団のリーダーが言う、「朝鮮人なら殺してもいいのか?」

以下、最大のネタバレ注意!


「朝鮮人なら殺してもいいのか?」

これは多くの人が注目するせりふだが、このあと、東京に出稼ぎに行った夫が朝鮮人に殺されたと思い込んでいる妻が、リーダーを斧で殺害し、そこから虐殺が始まる。

ネットでいろいろ意見を読んだが、多くの人が行商団のリーダーのせりふを重視しているものの、この先を論じていない。ネタバレになるからかもしれないが、このあとが肝心なのだ。

夫を朝鮮人に殺されたと信じ込んでしまった妻は、「朝鮮人なら殺してもいいのか?」と言われ、殺してもいいと思ったのだ。

彼女は東京から逃れてきた人々から、朝鮮人が日本人を殺していると聞かされる。「実際に見たのか?」と村人が聞くと、「見てないけどみんなが言っているから」という答え。妻に対して「まだそうと決まったわけじゃないから」と言う女性がいるが、妻は夫がなかなか帰ってこない、連絡もとれないので、朝鮮人に殺されたと信じ込んでしまったのだろう。

ラスト近く、妻と幼子のもとに夫が帰ってきて、妻の名を呼ぶシーンが衝撃的だ。

善良な人が虐殺をする、その最も善良な人が彼女であり、彼女が始めたことであるという衝撃。

そのあと、幼い子ども2人を斬り殺すのは軍国主義に染まった若者で、このあたり、虐殺を始めた人々の精神的な背景が前半できちんと描かれているのである。

この辺が脚本が非常にしっかりとしていて、よくできていると思うのだが、同時に、ちょっと恣意的じゃないかと感じる部分もある。

なんというか、理詰めできちんと作られすぎているところがあって、それが本来、混沌としているはずの人間の描写を封印してしまっている感があるのだ。

主要登場人物にリベラルで知性的な人が多いということは前に書いたが、この脚本はまさにリベラルなインテリの作なのである。そこからはみ出した部分が本当の人間ではないかと思うのだが。

一方、主要人物の中には、水道橋博士演じる退役軍人のような虐殺を扇動する狂気の人物もいる。ただ、この人も根は善人で、間違いだとわかって泣き崩れる。

史実では虐殺をした人々は「村を守るためにやった」と自己正当化したそうだ。それが自然だろうと思う。罪悪感からの言い訳だったとしても、目的のために手段を正当化したわけだから、それは悪であり、それに比べると水道橋博士の人物はもっと善良に見えてしまう。

善良な人々が政府やマスコミの扇動で差別意識を持ち、それにデマが加わって虐殺をした、だから誰でもこうなる可能性はある、ということを訴えたいのはわかるけれど、世の中も人間もそれほど単純ではないのであって、その単純さがちょっと残念なのだ。

それでも映画として、できるだけ多くの人に見てもらい、考えてもらいたい、という観点からすると、あまり難しいこと、複雑なことは避けるべきだとも思う。その点では、物足りないけれど、このやり方でよかった、むしろ、このテーマをもっと深く掘り下げるのはこれに続く映画人の仕事、と思う。

前記事にも書いたが、ラスト、田中麗奈の妻が元教師の夫に言う「どこへ行くの?」は、日本はこれからどうなるのだろう、ということだ。それに対する夫の答えは、観客に対して、「これからどうなるかは1人1人の行動にかかっている」と言っているのだろう。

もう1つのラスト、生き残った行商団の少年が故郷に帰って思いを寄せる少女に会うシーンといい、パッと見てすぐにわかるほどわかりやすくはないけれど、ちょっと考えればわかる、あるいは、心でわかるシーンが多いのも、この映画のうまさだ。

おまけ

夫が出征中に寂しさから不倫する女性が2人、そして、田中麗奈の演じる妻も夫が朝鮮で目撃した虐殺によって性不能になっているため、船頭と不倫するのだけれど、この3つの不倫がいかにも昭和の男目線なのがなんだかなあと思った。たぶん脚本の荒井晴彦の好みだろうと思ったら、やっぱりそうらしい。ただ、田中が船頭と不倫しているのを夫と船頭の恋人が見ているシーンとそれに続く関連シーン(豆腐のシーン)はなかなかにすばらしい。

この映画ではリベラルなインテリが無力だったり傍観するだけだったりするが、映画の作り手たちはおおかたリベラルなインテリなわけで、この映画はやはりリベラルなインテリが自己批判をこめて作った映画という感じがする。一方、観客にはいわゆるリベラルなインテリでない人が多くいるわけで、そうした人たちが善良なのに虐殺に加担してしまう村人に感情移入できているようなのは(ネットではそういう感想を多く見た)、やはり映画の作りがうまいんだろう。山田洋次の映画だって、山田は明らかにリベラルなインテリで、その立ち位置から作っているのだが、映画自体は庶民が感情移入できるものになっている。そういう共通点も感じた。