2013年8月17日土曜日

危険なプロット(ネタバレあり)

(最後に追記しましたが、結末についてなので、ご注意)
世間はお盆休みの1週間、できればすいているところへ行きたかったのですが、この時期は試写の数も減り、やっている試写に関係者が集中して混むし、プールは夜遅くまで子供がいっぱいいるし(この前の映画館もそうだけど、最近の子供は夜12時くらいまで起きているのであろうか?)、すいていたのは電車くらいでした。
その超満員の試写がフランソワ・オゾンの新作「危険なプロット」。フランスで大ヒットしたメタフィクション・サスペンス(?)で、とにかく面白い。書くことについての物語、という意味ではメタフィクションなのだし、教師が生徒の作文指導をしているうちに教師が生徒の術中にはまっていく、という意味ではサスペンスなのだけれど、見終わってみると、これは案外、人間的なドラマかもしれないと思えてくる、なかなかに深い映画なのだ。
舞台はフランスのとある高校。ギュスターヴ・フローベール・リセという文豪の名を冠した高校で、主人公はここの国語教師ジェルマン。作家をめざしていたが、断念し、今は教師をしているが、教え子たちが本も読まず、作文は2行しか書けないという、なんだか日本の学校のような世界。当然、ジェルマンはうんざりしているのだが、そこに現れたのがクロードという少年の書いた作文。同級生ラファの家に入り込み、ラファの家族を描写する文章の高校生離れしたうまさにジェルマンは驚くが、ラファの母親を「中産階級の女」と呼んだり、描写のニヒルさにジェルマンの妻ジャンヌは「この子は心に問題があるのでは?」と思う。しかも、作文の最後には「続く」の文字。続きが読みたい、という気持ちと、文章のうまいクロードに作家になる手ほどきをしたいという思いから、ジェルマンはクロードに作文の個人授業を始める。一方、ラファの家に入り込まないと書けない、というクロードは、ラファの一家にどんどん深入りし始め、ラファの家に通えなくなりそうになると、それを防ぐためにジェルマンに不正行為を要求、ジェルマンはそれに応えてしまう。
という具合に、フランスの中産階級の家に入り込んだ少年が同級生とその父母に影響を与え、家族を破壊し始める、というのは、映画のせりふでも言及されているとおり、パゾリーニの映画「テオレマ」のモチーフ。クロードは美少年で、ラファとその母エステルを誘惑し、息子と同じ名の父ラファにも影響を与えていく。ジェルマンは毎回、続くで終わる作文を読み、次がどうなるか知りたくてクロードの作文にのめりこんでいく。しかし、物語は、ラファの一家が破壊されるという結末にはならない。
原作はスペインの劇で、映画化に際してはかなりの脚色がされているようだが、オゾンがこの世界はイギリスのパブリック・スクールが似合う、と思ったところが面白い。実際、中産階級という言葉や制服はイギリスのパブリック・スクールの特徴だ。しかし、フランスには制服のある高校はないそうで、そこでオゾンは制服を導入した高校という設定を考えた。冒頭で、生徒たちが多様になったので制服を導入するという校長の言葉があり、ジェルマンはそれに不満そうな顔をする。
映画では制服が導入されてからの生徒たちしか出てこない。いろいろな人種や出身、貧富の差などを制服は隠してしまう。制服で隠す、というのがこの映画の重要なモチーフだ。
クロードがどんな少年かは冒頭でジェルマンがクロードについて高校の職員にたずねるシーンでわかる。彼は貧しい労働者階級の出身で、母は不在、父は無職。転校を繰り返している、という。クロードについての客観的事実はこれだけである。そのクロードは同級生ラファの家族を中産階級と呼び、ラファの家はクロードの家の4倍の広さがあるという。母は自分と父を嫌って出ていった、と彼はいうが、父親が無職の理由は、結末近くになるまでまったくわからない。
ラファの方は、父と息子を見ると、イタリアかどこかの移民の子孫なのかな、という感じ。貴族の末裔とか、そういう感じではまったくない。クロードの方がイギリスのパブリック・スクールにいそうな中産階級の坊ちゃん風。しかし、実際は、クロードは貧しく、ラファは裕福であるらしい(制服を着ているので、違いがわからなくなっている)。
ラファの父は中国と取引する、いわゆるグローバル・エリート。しかし、裕福とはいっても、大邸宅に住んでいるわけではない。この家を、うちの4倍の広さ、と感じるクロードは、相当に貧しい暮らしをしていると想像できる(実際、結末近くでそれがわかる)。だが、見かけだと、制服を着たクロードはラファとそんなに違う生活をしているとは思えない。ここがミソなのだ。
一方、教師のジェルマンは、妻が画廊をやっていて、こちらもそれなりに裕福そうである。
ラファ父子はバスケットボールが好きで、母はインテリアに夢中、という、裕福だけど体育会系のような感じの家だが、ジェルマン夫婦は見るからにインテリで子供はいない。この2つの裕福な(クロードにいわせれば中産階級)家が、そうではないクロードに見つめられることになる。
しかし、ここがまたこの映画のミソだと思うのだが、クロードが見るからに貧しい労働者階級で、頭はいいがきびしい暮らしをしていて、未来もない、みたいに描かれていたら、彼が裕福な中産階級の家族に入り込み、裕福なインテリの夫婦にもかかわってくるというストーリーは、ある種のピカレスクになるだろう。18世紀にヨーロッパで流行した、貧しいが頭がよく野心的な主人公が裕福な階級の中に入り込んで、そこでさまざまな手段を使ってのし上がっていく物語だ。
だが、この映画は、クロードに制服を着せ、労働者階級の匂いのしない上品な雰囲気の少年にしたことで、ピカレスクになることを免れたのだ。オゾンがねらったのはそこだと思う。ピカレスクにはしたくなかったのだ。かわりに、オゾンはジェルマンに「ビルドゥングスロマン」という言葉をいわせる。ヨーロッパ文学史を知る人にはおなじみ、ピカレスクが発展したのがビルドゥングスロマンなのだ。貧しく階級の低い主人公が才覚と美貌で上の階級にのし上がっていくピカレスクは、やがて、主人公の成長発展物語へと変化し、それがビルドゥングスロマンと呼ばれるジャンルとなる。ビルドゥングスロマン自体はゲーテが発祥だが、イギリス文学ではヘンリー・フィールディングが「シャミラ」、「ジョナサン・ワイルド」というピカレスクから出発し、「ジョゼフ・アンドルーズ」、「トム・ジョウンズ」というビルドゥングスロマンに移行している。一般には、18世紀に流行したピカレスクが、19世紀にビルドゥングスロマンに変化したとされ、19世紀にはこの種の成長発展小説が多く登場した。そして20世紀になると、この形式は芸術家をめざす主人公の葛藤を描く芸術家小説へと変化していく(以上、文学史の講義でよくいわれることです)。
つまり、オゾンはピカレスクの設定でビルドゥングスロマンをやろうとしている、というか、それに近いものをこの映画には感じる。
(ネタバレ注意)
以下、ネタバレになるのだが、結局、クロードはラファの家族を崩壊させることはできない。ラファはラファエルの愛称で、ラファエルといえば、聖母子とか、そういう家族の絆を感じさせる絵を描いたルネサンスの画家だけれど、そういう名前の父子の家だから、この家族は強い絆で結ばれていて、クロードごときではまったく崩れないのだ。
クロードに破壊されるのはむしろ、ジェルマン夫婦である。クロードの作文はやがてジェルマン夫婦も巻き込んでいき、ついにクロードはジェルマン夫婦の家に入り込み、そして、というのが結末。
しかし、この最後の部分も決してピカレスクではない。ジェルマン夫婦の関係が壊れるのは、むしろ、ジェルマンの自業自得のように感じられる。
ジェルマンはクロードに、作家になるためにはどうしなければいけないかと、いろいろと指導するが、彼自身はその理想を実現できず、書くのをやめたことがわかる。
クロードがラファの家に入り込んだのは、家族がほしかったからだ、とクロード役のエルンスト・ウンハウアーはいう。まさにそのとおりだと思う。クロードは家族を破壊したいのではない。適度に裕福で、親子が仲良くしているある種の平凡だが理想的な家族がほしいのだ。その理由は、結末近くで、クロードが父の介護をしているシーンでわかる。
ジェルマンとの関係は、上の文学史のところで書いた、芸術家小説の関係になるだろう。制服を着せることでピカレスクを免れ、ジェルマンにビルドゥングスロマンについて語らせたオゾンは、最終的に、ジェルマンとクロードの両方が物語の創造をめざす芸術家小説のモチーフに到達する。18世紀から20世紀のヨーロッパ文学史の見事な縮図。でも、それが鼻につかないほど人間的な、あまりにも人間的な物語になっているところに驚いた。
ジェルマン役のファブリス・ルキーニは、まるでウディ・アレンのような雰囲気で、自作自演するアレンのような人物になっている。アレンの映画で、彼がアレンの分身を演じたら面白いのにな、と思った。

追記 ラスト、ジェルマンとクロードが並んで、目の前の建物の窓を見ながら物語を作るシーンは、なんとなく、ゲーテの「ファウスト」が原作の「悪魔の美しさ」を思い出した。
ミシェル・シモンの老いたファウストと、ジェラール・フィリップの美青年メフィストフェレスに、この2人が似ている気がしたのだ。ジェルマンの物語として見た場合、ジェルマンはクロードというメフィストフェレスに誘惑されたファウストなのかもしれない。
そして、このラストでは、ジェルマンの方が面白い物語を作りそうなのだ。
結果として、これは日々の平凡な日常に埋もれていたジェルマンがクロードと出会い、作家としてよみがえる物語なのだろうか(続く?)。