2013年9月10日火曜日

壁の花であることの特権

(一部、訂正しました。)
スティーヴン・チョボスキーが自作の小説を映画化した「ウォールフラワー」を見てきた。
原題はThe Perks of Being Wallflowerで、「壁の花であることの特権」という意味らしい。
原作は90年代末に出版されてベストセラーになり、すぐに映画化の話が舞い込んだが、映画監督をめざしていたチョボスキーはすべて断り、満を持しての映画化となった。
試写状を見たときは、スクールカーストの最下層でいじめにあっている高校生の少年がはみ出し者たちと知り合い、成長していく、みたいな感じで紹介されていたので、へえ、最近流行のスクールカーストの話なのか、と思い込んで見に行ったら、なんか違う。
主人公のチャーリーは問題を抱えていて、友達ができず、彼女もできず、孤立しているが、決してスクールカーストの最下層ではないし(というより、スクールカーストそのものはまったく出てこない)、いじめにあっているわけでもない。彼はただ、孤立しているのだ。
高校1年生のチャーリーは昼食をともにする友達もいないのだけど、国語の先生だけは彼の文才を理解してくれる。他の生徒が文学にまったく興味を示さないのに、チャーリーだけは読書が好きで、先生から本を借りてはレポートを書いて出す。そんな課外授業はあのフランソワ・オゾンの「危険なプロット」に少し似ているが、こちらはまったく健全な師弟関係だ。
同じ学年の友達ができないチャーリーだが、やがて3年生のパトリックとサムという義兄妹に出会う。2人は親が子連れで再婚したので義理の兄妹になったのだが、サムはとても魅力的な女の子なので、チャーリーはひそかに彼女を好きになる。でも、サムにはボーイフレンドがいて、そいつがあまりよくないやつなのに、なぜかサムはつきあっている。チャーリーの姉も実は、どうしようもない男とつきあっている。「どうして人は自分をだいじにしてくれないやつとつきあうんだろう」と問いかけるチャーリーに、国語の先生は「それが自分にふさわしいと思っているから」と言う。この辺、記憶で書いているので字幕の訳と違っているが、そんな意味の言葉だ。
自分をだいじにしてくれない、というのは、英語では自分をナッシング(無)として扱う、というようなことを言っていた。このナッシングがけっこう重要なキーワードで、サムの義兄パトリックは技術の先生に「ナッシング」と呼ばれる。人を無として扱う、つまり、相手を尊重しない、というのはこの映画に流れるモチーフの1つだ。後半、「Nothing hates us」と書いた紙をパトリックが出すシーンがあって、字幕ではナッシングはみんなが嫌いだとかそういう訳になっていたが、普通に訳せば何も私たちを憎まない=私たちを憎むものはない。でも、この場合はもっと複雑で、ナッシングはパトリックのことでもあるし、人から無として扱われる人は誰も憎まないから、人を無として扱う人にとって、無として扱われてもつきあう人は誰も憎まない、だから都合がいい人だ、というふうにも取れる。
壁の花であるチャーリーの特権は、こういうことを観察できることだ。
パトリックとサム、そしてその仲間たちとつきあうようになったチャーリーは楽しい学校生活を送る。しかし、チャーリーは心に病を抱えていて、時々気絶したりする。なぜなのかは、しだいにわかってくるが、チョボスキーの描き方はあまり親切ではない。
物語は1990年前後のピッツバーグに設定されている。チョボスキー自身がピッツバーグの出身なのだが、ここが90年前後のピッツバーグであることは会話や音楽などから想像するしかない。ウィンドウズ95が出る前なので、パソコンはまだ普及していない。日本ではこの頃、ワープロ専用機が普及していたが、アメリカはまだタイプライターだ。作家をめざすチャーリーはタイプライターをプレゼントされる。CDはすでにあるが、主人公たちはレコードやカセットテープを聞いている。そして、70年代の映画「ロッキー・ホラー・ショー」を上映しながらスクリーンの前で実演する(若き日のスーザン・サランドンの顔が映ります)。終わりの方のチャーリーの家族の会話に、ピッツバーグ・ペンギンズがディフェンスがだめで、という話が出てくる(ペンギンズは91年に優勝するが、その前はだめだめだった)。そして、ピックアップトラックに乗ったチャーリーとサムとパトリックがピッツバーグのトンネルを抜けて橋を渡るすばらしいシーンがある。まあ、こんな具合に、90年前後のピッツバーグを表現しているのだ。(追記 上の部分、うろ覚えの記憶で書いた部分があり、その後、訂正しました。また、「ロッキー・ホラー・ショー」は70年代の映画なので、90年前後を表すものではないですね。)
ナッシングという言葉の意味の複雑さ、観客に親切にしない手法。そういうレベルの高い技法を駆使しながら、でも物語は観客の共感を呼ぶようになっているあたりはなかなか感心する。
サムやパトリックたちと友達になったチャーリーだが、仲間内の恋愛関係のトラブルから、チャーリーはいったんはまた孤立してしまう。しかし、パトリックとアメフト選手のゲイの関係が選手の親にばれ、それが原因でパトリックが学校で生徒たちから殴られているとき、チャーリーがパンチを食らわしてパトリックを助けたことから、また仲間との関係が戻る。そしてそのあとはサムやパトリックなど3年生たちが大学入学のための適性試験を受け、やがて彼らは卒業していくのだが、この後半部分で、チャーリーの心の傷がしだいに明らかになっていく。
それはチャーリーの幼い頃に起こったある出来事のためなのだが、チャーリー自身がそれをよく理解できないでいる、という状況を、映画は実にうまく表現しているのだ。何かあるのだが、それが何かわからない、そういう感じがよく出ている。そして、ついにチャーリーが精神科の医師によって、過去と向き合い、何があったかを理解する、というクライマックスが来るのだけれど、ここもはっきりとは描いていない。ぼけっと見ていると、よくわからないままに終わってしまうかもしれない。
スクールカーストの最下層にいる孤立した少年が、というような前提で見ていると、この重要な部分を理解しないままに終わってしまう観客がいるのではないかと心配になる。ある意味、非常にレベルの高い表現法の映画なのだ。
精神科の女性医師の言うせりふ「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」という言葉がいい。チャーリーの過去は、はっきり言葉にできないほど過酷でつらいものなので、このくらいの言葉で乗り越えられるものではないと思うが、未来は変えられると思うしかないのだ。
最後に1つ気になったこと。結局、アメリカは秀才とスポーツ選手と腕力が強い人が1番なのだろうか。なぜって、サムやパトリックとその仲間たちは変わり者だけど、みんな勉強ができる。チャーリーも勉強ができるし、その上、けんかでパトリックを助けたのだから腕力も強い。映画の中ではスポーツ選手が一番幅をきかせているように見える。それに対抗するのは、やっぱり勉強と腕力なのか? 確かに、勉強ができたから孤立してもやっていけた、という人は少なくないのだが。その一方で、国語の授業で文学にまったく興味を示さない生徒たちはどういう存在なのだろうと、興味を感じる。