2014年8月9日土曜日

最近見た映画から

7月下旬から積極的に試写に行っています。
その中から気になった映画について。


「不機嫌なママにメルシイ!」(ネタバレ注意)
ギヨーム・ガリエンヌの一人芝居を自ら監督・脚本・主演した映画。
ガリエンヌは自分の分身である主人公ギヨームとその母の二役を演じる。元の舞台ではすべての人物を一人で演じたらしい。
ギヨームは裕福な家庭の3人兄弟の末っ子。女の子が欲しかった母親の影響で女の子のように育ってしまい、自分は女なのかゲイなのかと悩む。
普通に考えたら、これは性同一性障害でしょう、と思うところだが、ギヨームの少年時代や青年時代にはまだ性同一性障害という概念は一般的になっていなかったのだろうか。この映画では性同一性障害のことはまったく出てこないが、確かにこの概念が普及するまでは性同一性障害の人は同性愛だと思われていた。
そんなわけで、しぐさが女っぽくて、男性に恋心を抱いてしまうギヨームは自分でもゲイじゃないかと思い、それを確かめるためにヨーロッパ各地へ行ったりしていろいろな経験をする。それがコミカルに描かれていて笑ってしまう。
でも、見ていて思ったのだが、ギヨームは母親がすごく好きなのだ。要するにマザコン。心が女だったら、普通、母親より父親に恋するよね。ゲイの男性なら母親が好きかもだけど、心が女だったらこんなに母親命だろうか?と疑問に思っていたら、やっぱり、という結末に。
つまり、これは、女の子のように育てられたヘテロの男性の話だったのだ。
まあ、女性でも、少女時代には男性的な女性の先輩や同級生に恋したというような経験はある。だからといって、彼女たちが同性愛というわけでもなく、その時期をすぎると男性に恋するようになる。
ギヨームの場合は、男性にもそういう性が不確かな時期があるという話、なのだろう。ただ、男性が性のアイデンティティをこういうふうに求める物語、というのはなかなかない。その点で、非常にユニークな話だ。


「記憶探偵と鍵のかかった少女」
スペイン人の監督がハリウッド・スターを使って作ったミステリー映画。記憶の中に入り込んで事件を解決する探偵会社の探偵が主人公。
が、しかし、これ、「インセプション」の二番煎じ。特に主人公の妻との過去が完全に「インセプション」のパクリ。これはまずいでしょう。
だいたい、人の夢や無意識の中に入って事件を解決、というアイデアはかなり前からあって、「インセプション」はそれを夢の階層とか夢の構築といった斬新な手段で描いたからすばらしかったのだが、この映画の場合は夢のかわりに記憶になっているだけで、新味が何もない。夢のかわりに記憶にしたわりには、夢とどこが違うの?な展開。
話の展開もすぐに先が読めてしまうので、驚きもない。


「ニンフォマニアック」
ラース・フォン・トリアーの新作で、色情狂の女性が語る赤裸々な過去を2部作、計4時間の映画に仕立てた作品。前半がコメディタッチで楽しい。後半はえぐい展開になるが、以前のトリアー作品ほどのえぐさはないので、前半に比べると後半はイマイチ。でも、つながっているので、全部見ないわけにはいかない。
この映画についてはもっと詳しく書きたいので、また別の機会に書きます。


「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」
女優としての絶頂期に引退し、モナコのレーニエ大公と結婚してモナコ公妃となったグレース・ケリー。2人の子供をもうけるが、夫は公務に忙しく、夫婦の間には隙間風も吹き始め、その一方で公妃としての自覚が足りないグレースはただの主婦になってしまっている。そこへアルフレッド・ヒッチコックから新作「マーニー」への出演依頼が来て、という話。実話にもとづいているが、かなり脚色されているようで、冒頭、ヒッチコックがモナコまで来るけれど、実際は来ていないとのこと。
グレースは映画復帰に意欲を見せるが、そのとき、フランスがモナコに圧力をかけ、国の存亡の危機に。今こそ公妃としての自覚を持て、と言われたグレースは映画復帰を断念し、公妃としての政治力を身に着け、モナコのために活動する、という物語。
ちょっと「英国王のスピーチ」の女性版のような感じもするが、王族に嫁ぐということの意味は、という問いかけが繰り返されるように、公妃になるということは普通に結婚して妻になり母になるということではないということなのだ。
結婚がそのまま仕事であるのが王族だ、というのは、今もそうだと思うが、それでも半世紀前と今ではまったく同じではない、という気がする。ダイアナ元妃はそういう考えになれなかったから、皇太子と離婚した。
この映画ではグレースとレーニエ大公は愛を取り戻すので、公妃であることと愛のある結婚をすることは矛盾していないが、王族の妻であることが即、仕事である、というメッセージは十分に伝わってくる。それは特別な世界であり、半世紀前だから堂々と言えるメッセージだという感じはぬぐえない。
レーニエ大公がグレース・ケリーと結婚した背景には、モナコという小国を維持するためには彼女のような華やかな妃が必要だったということがあった、ということは当時から言われていた。当時、モナコは男の子が生まれないとフランスに接収されてしまうので、グレースは男の子を生む必要があった(実際、息子を生んだので、とりあえず義務を果たしたと言われた)。現在では男の子が生まれなくてもフランスに接収されることはないが、小国を維持するための政略結婚的意味合いがあったのは事実だろう。
映画はフランスとモナコの対立の中で、フランス側のスパイが誰かというミステリーの要素もあり、なかなか楽しめる。グレース役のニコール・キッドマンははまり役だが、レーニエ役のティム・ロスはじめ、脇役もいい。シーンごとにキッドマンが衣装を変えるのも見もの。


「蜩の記」
「グレース・オブ・モナコ」は半世紀前の話だったが、こちらは江戸時代が舞台の時代劇。原作も読んだが、原作の胸を打つセリフの数々が映画の中でみごとに決まっていて、それを話す俳優の演技もすばらしい。
これもまた、古い時代だから成立する話であり、テーマなのだが、現代では成立しないけれど、それでもこういうテーマや人間の生き方を知るために時代劇が必要なのだ、ということを考えさせられた。
この映画については、詳しく書く機会がありそうなので、そのときに。


「リスボンに誘われて」
スイスの作家パスカル・メルシエの小説「リスボンへの夜行列車」の映画化、だそうで、映画を見て原作に興味を持ったので、図書館で借りようとネットで本がある図書館を調べ(貸し出し中だと行ってもむだなので)、出かけたが、見つからない。スイス文学というくくりはないので、作者の名前からしてフランス語だろうと思い、フランス文学を見るが、ない。その他のヨーロッパ文学にもない。しかたないので図書館員に探してもらい、本の表紙を見たら、原題はドイツ語だった。
確かにスイスのベルンから始まるので、ベルンはドイツ語圏だから当然ドイツ語だわ。私としたことが。
主人公はベルンのギムナジウム(日本でいうと高校?)の古典の教師。書物と学校の生徒を相手にするだけの生活を何十年も送ってきたが、ある日、橋から飛び降りようとしている女性を助けたことから、ポルトガルのリスボンへと旅立つことになる。
このリスボンへ行くきっかけが映画と原作ではかなり違っているが、映画の方がうまくまとめている。ただ、ベルンからリスボンへの直行の夜行列車はないだろうと思っていたが、原作では列車を乗り継いで、最後に夜行列車でリスボンへ着く(原作はまだ途中までしか読んでません)。
主人公は自費出版でわずかな数しか出ていないポルトガル語の本を読み、その作者について知りたいと思ってリスボンへ行く。そこで、1970年代まで続いたポルトガルの独裁政権時代の忌まわしい歴史を主人公は知ることになる。
この独裁政権時代については、プレスシートに詳しい解説が載っていて、大変参考になった。最近のプレスはこの手の解説が充実しているものが多い。
映画はその過去の時代の物語と、書物の世界に没頭していた主人公が現実の世界に触れて変化する物語が交互に描かれている。このあたり、面白いし興味深いのだが、映画はイマイチ語り口がうまくないかな?という感じがして、原作が読みたくなったのだ。原作を読み終えたら、また書きたいと思う。