2018年4月27日金曜日

「君の名前で僕を呼んで」:30年後の「モーリス」(ネタバレ大有り)

「君の名前で僕を呼んで。僕の名前で君を呼ぶから」

ジェームズ・アイヴォリーがアカデミー賞脚色賞を受賞した映画。
イタリアで古代の美術品の研究をする教授が毎年夏休みにアメリカの大学院生を招き、勉強を兼ねて助手のようなことをさせている。院生は毎年違う人が来るのだが、1983年にやってきたオリヴァーはハンサムで外交的で、すぐに女性たちの人気者になる。ひそかに彼を思う教授の息子エリオ。ガールフレンドのいるエリオだが、同性への初めての恋心にとまどう。

日本ではPG12のレイティングで、小学生には指導が必要となっているが、何が原因かと思ったら、17歳のエリオがタバコをスパスパ吸っていて、まわりの大人がそれを見ても何も言わないのだ。

オリヴァーの方も実は最初からエリオに気があって、やがて2人は愛し合うように。
冒頭に掲げた言葉はオリヴァーのせりふ。比翼の鳥と同じく、一心同体ということだろう。

エリオとオリヴァーを演じるティモシー・シャラメとアーミー・ハマーの肉体が美しく官能的に撮られている。なんでアイヴォリーが監督しないのかな、と思っていたが、こういう官能は彼にはむずかしいだろう。

エリオの両親は同性愛に理解があり、オリヴァーが帰国する前に2人で旅行することを許す。2人だけの楽しい日々だが、ある夜、オリヴァーが道で出会った女性と楽しげにダンスする様子を見たエリオは顔をしかめる。
ついにオリヴァーが帰国する日が来た。駅の別れ。「終着駅」、「旅情」、「ひまわり」といったイタリアを舞台にした映画の駅の別れが頭をよぎる。
愛するオリヴァーを失い、悲しみにくれるエリオに、父が語りかける。ここからネタバレ全開なので注意してください。

実は父もかつて、同性に恋をしたことがあった。その経験から、父はエリオに、悲しみを無理に押し殺すなと助言する。押し殺してしまうと、次に愛を与えるべき人に与えるものがなくなってしまうから、と。
半年後の冬、オリヴァーから電話がある。婚約した、と彼はエリオの父に報告する。エリオも聞いている。相手は以前からつきあっていた女性らしい。
エリオもオリヴァーと知り合った頃は女の子とつきあっていた。オリヴァーに恋して、彼女とつきあうのをやめている。
かつて同性に恋したという父は、妻とは仲睦まじく、よい家庭を築いているように見える。父の言った、次に愛を与えるべき人とは、妻のことだったのだろうか。
そして、オリヴァーも、エリオとのつかのまの恋を経て、女性と結婚する。
エリオがどうなるのかはわからないが、彼もガールフレンドがいたのだ。
つまり、この映画の3人、エリオとオリヴァーと父はバイセクシュアルなのか?
あるいは、父とオリヴァーは一時的に同性を愛したが、本質的には異性愛者なのか?
そしてエリオは?
同性愛、異性愛、バイセクシュアルははっきり区別できるものではないと言われる。異性愛者だけど思春期に同性で好きな人がいた、という程度なら決してめずらしくないし、異性愛から同性愛に移ったり、その逆もあったりするようだ。
あるいは、この時代、1983年はまだ今ほど同性愛者が自由に生きられなかったので、異性と結婚する道を選んだのか? エリオの父の時代なら同性愛はタブーであっただろうし、オリヴァーも自分の父は同性愛を理解しないと言っている。
だから、この可能性も捨てきれないのだが、この映画を見る限り、どちらかというと彼らはバイセクシュアルであるか、あるいは同性愛は一時的なものだったというように見える(エリオだけはこれからどうなるのかわからないが)。
そこで思い出すのがアイヴォリーが30年前に監督した「モーリス」。
E・M・フォースターの小説の映画化で、フォースター自身がゲイであったのだが、彼の時代には同性愛は表に出すことができず、小説も死後に出版された。
映画化に際し、アイヴォリーは自分で脚本を書いている。「眺めのいい部屋」をはじめ、多くの彼の監督作で脚本を担当したルース・プラヴァー・ジャブヴァーラではなく、自身で脚本を書いた。その理由として、ジャブヴァーラが原作を気に入らなかったから、と当時言われていたが、「君の名前で僕を呼んで」を見ると、女性に脚本を任せたくなかったのではないかと思えてくる(いや、それはないかな)。
作家でもあるジャブヴァーラの他の作品の脚本に比べ、「モーリス」のアイヴォリーの脚本は冗漫で、映画の出来も「眺めのいい部屋」や「ハワーズ・エンド」(どちらもアカデミー賞作品賞ノミネート)ほどよくなかった。しかし、30年後の「君の名前で僕を呼んで」を見ると、「モーリス」との共通点が鮮やかに浮かび上がってくる。
「モーリス」は20世紀初頭のイギリスの裕福な中産階級の若者であるモーリスとクライヴが恋に落ちるが、やがてクライヴは同性愛を卒業し、モーリスから去ってしまう。モーリスはその後、森番の青年と恋に落ち、2人で森に逃げるというD・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」のような結末になる(「モーリス」の方が「チャタレイ夫人」より10年以上早く書かれている)。フォースターの原作では、裕福な中産階級のしがらみに取り込まれたクライヴは批判的に描かれるが、アイヴォリーの映画ではヒュー・グラントの演じるクライヴの方がむしろ主役のようであり、最後は森番と森に逃げ込むモーリスを窓から眺めるクライヴで幕を閉じる(この結末はフォースターの代表作をデイヴィッド・リーンが映画化した「インドへの道」の結末によく似ている)。
フォースターの小説では窓から外を眺めるだけの人間は否定的に描かれるのだが(「眺めのいい部屋」のヒロインは外へ出ていく)、アイヴォリーの「モーリス」では、クライヴは決して肯定的に描かれてはいないが、それでも、窓から外を眺めるクライヴの方に力点が置かれているように感じた。
フォースターから見れば、クライヴはモーリスを裏切り、偽善的なイギリス中産階級に与してしまった人間だが、アイヴォリーの映画ではクライヴのような生き方も決して否定されていないように思えた。
そして30年後の「君の名前で僕を呼んで」。エリオの父とオリヴァーは同性との恋を経て異性と結婚する。彼らとクライヴは同類なのではないか? エリオの父とオリヴァーが自然にそうなったように、クライヴも自然にああなったのかもしれない。エリオも父とオリヴァーを責めることはない。エリオ自身も父やオリヴァーと同じ道を行くかもしれない。

原作は読んでいないのだが、「君の名前で僕を呼んで」のアイヴォリーの脚本は「モーリス」とは比べものにならないほどすばらしい。はっきりとした言葉を使わずにさりげなく意味を伝えるせりふの数々(原作どおりかもしれないが)。監督(ルカ・グアダニーノ)の力だろうが、映画のテンポもいい。ティモシー・シャラメの名演技は最後のアップによく現れている。

追記
この映画、なぜか吹替え版があるのだが、英語とイタリア語が同じくらい出てきて、フランス語とドイツ語も少し出てくるのに全部日本語かよ、と思ってしまった。
私の行ったシネコンでは字幕は昼間とレイトで、吹替えが朝と夕方だが、吹替えは予約がほとんどない。他のシネコンを見ても多くの人が見たがるだろう夕方の時間を吹替えにあてているのだが、吹替えを優遇するほど需要はないと思う。字幕だけの日比谷シャンテが混むわけだ。