2018年11月26日月曜日

もう一度「ボヘミアン・ラプソディ」について

「ボヘミアン・ラプソディ」ドルビーアトモスの記事にわりとアクセスがあるので、アトモス上映についてググっている人が多いのかもしれないけれど、私が見た日本橋のアトモスは状態が悪かったので、残念ながら参考にはならないと思う。
と思っていたら、いろいろ朗報が。

(朗報 今週末から日本橋TOHOで「ボヘミアン・ラプソディ」がアトモスに復帰するようです。このブログで日本橋アトモスは雑音が、と何度も書いてしまったけれど、よかったと書いている人もいるので、おそらく私の見た回だけと思われます。というか、せっかくアトモス復帰なので、しっかりよい音響にしていただきたいし、映像はTCXなので申し分ありません。日本橋は普通の上映も回数をとっているし、もちろん応援上映もあります。)
(さらに朗報。日本橋は水曜からTCXのスクリーンで上映。そして、亀有MOVIXは金曜から最大スクリーンに復帰、金曜は小さいスクリーンで2回の応援上映もあり。他でも「ボヘミアン」の上映が増えているようです。それにしても日比谷がIMAX復帰、日本橋がTCXとアトモス復帰、亀有が最大スクリーン復帰と、私が行った映画館が軒並み「ボヘミアン」優遇なのはうれしい限りです。また行ってしまいそう。)

というわけで、この映画については見てから数日後に感想を書いているのだが、見た直後にいろいろな雑音が頭に入ってきてしまい、その雑音に抵抗しながら書いたので、肩肘張った文章になってしまった気がする。
公開直後はアメリカでの批評家の評判が悪いということで、大ヒットはしているけれど作品としてはイマイチみたいな言説が跋扈していたが、やはり映画に感動した人々の声が絶大で、その後は評論家も含めて好意的な声が圧倒的になっている。
特に2週目、3週目と、観客が増えていることや応援上映の人気が話題になって、もう、映画としてイマイチとかいう雑音はすっかり消された感がある。
私自身、すでに6回見て、今はもう、最初の雑音にはまったく影響されずに映画を語ることができるようになった。
そこで、もう一度、この映画について書いてみたいと思う。今回は手短に。

この映画は脚本がそれなりにうまくできているし、編集もわりと決まっている。
雨の中でフレディが真実に気づくシーンからラストまではほとんど完璧と言っていい。
それまでの部分は確かにだれるシーンもあるのだが、そのあとバーンと音楽が鳴ると一気に盛り上がる。その繰り返しで、だれるシーンが救われている面がある。やはりクイーンの音楽がすごいのだし、音楽の部分の表現がいいのである。
そして、雨の中でフレディがメアリーの言葉によって覚醒し、ポールとの縁を切るシーンからラストまではみごとな展開だとしか言いようがない。
テレビでフレディの私生活をばらすポールを見るシーン、バンドのメンバーと仲直りするシーン、そして、「誰が永遠に生きたいと思うだろう」という曲が流れ、エイズの治療のために病院を訪れたフレディが、廊下にいた青年から「エーオ」と声をかけられるシーン。このあと、荘厳な音楽が流れるが、ここはまさに文学で言うところのエピファニーである。
雨の中のアウェイクニング(覚醒)と、病院の廊下でのエピファニー。
文学の伝統的な手法がここにある。
さらには、最初のシーンで歌われた「サムバディ・トゥ・ラヴ」が再び歌われ、それがフレディとジムの再会になるという脚本のうまさ。
フレディと家族のシーンは描写としてイマイチ弱い感じはするが、フレディがジムを家族に紹介するシーンは初めの方のメアリーを紹介するシーンと対になっている。
このあたりの対になる表現が、王道として、決まっているのである。
言い換えれば、この映画は古典的な、伝統的な手法でドラマを構成していて、そこが、もっとシリアスで斬新な映画を期待した人からすると、浅はかということになってしまうのだろう。
シリアスで斬新といえば、フレディが記者会見で記者たちから私生活に関する質問攻めにあうシーンがそうしたシリアスさや斬新さを見せていると思うが、このシーンどうも映画全体から浮いているように見える。フレディが精神的に追い込まれていることを示すとか、ゲイへの偏見を示すとか、意味はあるのだろうが、あまり効果的だとは思えない。こういうシーンや演出ばかりで出来上がった「ボヘミアン・ラプソディ」を見たい人がいるのだろうか?
この映画はクライマックスをライヴ・シーンにするという目的で作られた映画であり、あのクライマックスに向かうには古典的伝統的手法がふさわしい。ポールとメアリーが、古典小説ではおなじみの、主人公を悪の道に誘う人物と善の道へと戻す人物になっているのも、古典的伝統的手法の物語の方があのクライマックスに向かうのに適しているからだ。
確かにだれたシーンもある、イマイチの描写もある、だが、そのたびに音楽がバーンと鳴ってシーンを救い、伝統的なアウェイクニングとエピファニーを見せて、そのあと一気にクライマックスのライヴになだれ込む。その頃にはもう、観客は熱狂の渦に包まれている。
「ボヘミアン・ラプソディ」とはそうした映画であり、熱狂の渦に巻き込まれた観客は、もう一度、あの渦に巻き込まれたいと思うのだ。

どうでもいい追記は消しました。
巷にはこの映画についてのよい文章があふれているのに、タイトルでPV稼ぎをねらい、中身は長いだけの駄文、しかも大手サイト、みたいなのにぶつかって、よい気分が吹っ飛んでしまったのだけど、そういうのは華麗にスルーが一番。次から著者名に気をつけよう。