2018年11月3日土曜日

「ウィンド・リバー」(ネタバレあり)とその他のこと

キャンドゥで買い物をすると、時々袋にすかいらーくのクーポン券が入っていて、そこにステーキガストというのがある。
ガストやSガストは知ってるけどステーキガスト? でもサラダ食べ放題みたいだから行ってみたい。店舗検索すると、柏にある。駅からちょっと遠いし、道がめんどくさそうだけど、行ってみるか、と思い、どうせ柏に行くならキネマ旬報シアターで見たい映画やっていないかな、と思って調べたら、試写状もらいながら見逃した「ウィンド・リバー」の最終日だった。

5時くらいに夕食、という感じでステーキガストに行き、100グラムの小さいステーキと食べ放題のサラダ、カレー、パン、デザートをたっぷり食べたらすっかり満腹になり、その後、今朝の9時まで何も食べませんでしたよ。それでも体重は増えていた。

映画を見るため駅に戻るのだが、行きはまだ明るくて初めてでもすぐわかったけれど、帰りが大変だった。行きに来た道は途中、信号のない広い道路を渡らないといけないので、信号のあるところから帰ったら、方向感覚が狂って、まったく違う方向に。まわりがどんどん暗くなるのでまずいと思って引き返し、明るい通りを歩いていって、また曲がるところで反対側に行ってしまう。バス停があったおかげで逆方向だと気づき、引き返したら、見覚えのある松屋が見えてきた。
時間的には余裕だったので、無事、映画館に着き、チケットを買って、まだ時間があるので2階の図書コーナーで本を見ていたら、ミッフィーがフェルメールの絵を見るという絵本があった。
フェルメールといえば、今、上野の森美術館でフェルメール展をやっているのだが、ここでやる美術展はいつも大混雑で、入場まで1時間待ちとか当たり前。シャンシャンか?という状況なので、これまで見たい絵が来てもいつもあきらめていた。今回のフェルメール展は日時指定券を買う方式で、ネットで見ると完売している日はないので、当日行っても買えるのかもしれない(当日券は200円高い)。日時指定といっても入る時間帯を指定しているだけで、出る時間は自由とのこと。
今回来るフェルメールは9点ということだけれど、そのうち3点は最初から最後まで展示されているわけではなく、目玉と思われる「恋文」は大阪だけの展示らしい。東京の展示では「手紙を書く女」と「真珠の首飾りの女」は西洋美術館で見ているので、日時指定で2500円も払って見るほどじゃないなあ、という感じ。
「手紙を書く女」と「真珠の首飾りの女」は女性の衣装がまったく同じなので不思議に思っていたが、ミッフィーの絵本でもその点を指摘していた(ミッフィーの絵本は「真珠の耳飾りの少女」が来たときに日本で企画されて出た本のようで、原作者とは無関係らしい)。「真珠の首飾りの女」は同じ時期に西洋美術館に展示されて、両方見に行ったけれど、「首飾り」の方が断然好きだったので、もう一度見たいという気はあるけれど、西洋美術館のときのようなゆったりとした雰囲気ではないだろうなと思うと、やはり敬遠してしまう。

というわけで、絵本を読み終わった頃に開場になり、座席につく。
「ウィンド・リバー」は「ボーダーライン」の脚本家テイラー・シェリダンが監督した作品で、演出がキクシャクしているところがあったり、ストーリーも少々破綻があるように見えなくもないが、アメリカ社会で見捨てられた人々を描くという視点がいろいろ考えさせられる。
雪深いワイオミングの荒野でハンターをしているコリーは先住民である元妻の頼みで先住民の居留地に住む元妻の実家に息子を預けに行き、そこで18歳になる先住民の少女の遺体を発見する。少女は友人の娘であり、以前、同じように雪の中で遺体が見つかったコリーの娘の親友でもあった。コリーと妻が別れたのは、娘の死が耐えられなかったからだろう(事件当時、自宅にいなかった自分たちを責めているに違いない)。
あとで調べてわかったのだが、先住民の居留地は警察の管轄ではなく、かわりに部族警察という自警団みたいなものがあるらしい。そこで凶悪事件が起こるとFBIが出てくるのだが、やってきたのはまだあまり経験がなさそうな若い女性捜査官ジェーンただ一人。ラスヴェガスから冬服も持たずにやってきたので、コリーの娘の服を借りて現場に行く。この時点ではまだコリーの娘がどうなったかは観客には知らされていないのだが、死んだことだけはわかる。そして、ジェーンが彼女の服を着て出てくると、コリーたちにはそれが娘がよみがえったかに見える。
被害者はレイプされていたが、直接の死因は他殺ではなく、このままではFBIが手を引くことになるので、事実上の殺人なのだからなんとかならないかとジェーンは主張する。FBIが手を引いてしまうと事件がうやむやにされてしまうという現実があるのだろう。
こんなふうに、警察や司法の保護を受けることができない見捨てられた人々の世界がひしひしと伝わってくる描写の連続で、見捨てられた人々をこうした視点で描いた映画はあまり見たことがない。
クライマックスで捜査する側の人々と疑わしい人々が銃を持って向かい合うシーンで、ジェーンが、「私はFBIだから私だけが警察権を持っている」と叫ぶが、部族警察には警察権がないということだろう。
少女に続いて、彼女の恋人の死体が発見されるが、物語の展開はわりと単純で、恋人の勤める石油掘削所の男たちが怪しいとなって、実際、そのとおりになる。少女と恋人が殺される経緯は誰かの回想というわけでなく、観客への説明として描写されるが、コリーやジェーンたちがそれを知るはずもなく、この辺が脚本として弱い。また、このシーンは「羊たちの沈黙」のクライマックスと同じ手法をとっていて、デジャヴでもあるなあ。ジェーンの描写も「羊たちの沈黙」の頃の女性捜査官のイメージとあまり変わっていない。
それより興味深いのは過去の西部劇との比較。舞台となるワイオミングはあの「シェーン」の舞台であり、州の最高峰には夏でも雪がある、というのはシェーンに描かれた雪を頂く山々を思い出させる。あの映画では牧場主と農民が対立しているが、実は、彼らは先住民を追い出して牧場や農場をやっているのであり、追い出された先住民は雪しかない土地でいまだに苦しんでいるのだということを思い知らされる。
また、男女のカップルを山奥の男たちが襲う、というのはサム・ペキンパーの「昼下りの決斗」だ。
先住民の中にはコリーの元妻のように外の世界に出て仕事をする者もいるが、居留地の中で無気力になり、酒や麻薬に溺れる者も多い様子が描かれる。コリーはジェーンに、この世界で生き残るのは運ではない、強い者が生き残り、弱い者は死ぬ、と語る。西部の男コリーがこの言葉を言うと、強い者への賛辞にも聞こえるが、実際は、弱い者が生き残れない世界があっていいのか、という問いかけでもあるように思える。
救いのない映画なのだが、ラスト、娘を失った先住民の父親が、死のうと思っていたところに警察に捕まっている息子から電話があり、久しぶりに息子と話した、とコリーに語るシーンに、わずかな希望を見出すことができる。