2019年11月20日水曜日

「アイリッシュマン」と「パラサイト」についての感想

先週金曜日はイオンシネマへ「アイリッシュマン」を見に行った。
{ROMA」同様、Netflixの作品で、今回は「アイリッシュマン」だけでなく、「キング」(10月公開)や「マリッジ・ストーリー」など数本が続けて劇場公開される。日本でも劇場公開のルートが開けたのはよいこと。
その前、というか、先月にはカンヌ映画祭パルムドール受賞で話題の「パラサイト」の試写にも行っている。
どちらも非常にすばらしい映画なので、とりあえず、感想を書いておくことにした。が、どちらもネタバレしない方がいいので、むずかしい。
「アイリッシュマン」は2004年に出版された、ジミー・ホッファ暗殺の真相を明かしたノンフィクションの映画化、ということで、ネタバレしてもいいかな、とは思うのだが、これから見る人はやはり知らない方がいいかもしれない(でも、それだと書きたいことが書けなくなる)。
「パラサイト」に関しては、これはネタバレしない方が絶対にいいし、作品についての感想もネタバレなしでできる。なので、こちらから先に書くことにする。

というわけで、「パラサイト」はネタバレなしで、「アイリッシュマン」はネタバレあり(そこだけ文字色を変える)で行きます。

「パラサイト」はさすがに話題の作品なだけあって、試写室は大混雑。最後列の座席の後ろの狭い空間の補助椅子で見た。ほとんどの試写室はスクリーンが非常に小さいので、最前列でも大きいとは思えないくらいだから、最後列のさらに後ろからだともう細かいところが全然見えない。
ただで見せていただいているので文句は言えないが、これは映画館で見ないとだめだと思った。
富豪の家の居間を遠方から撮ったロングショットが多いのである。その居間で起こる出来事や、犬が何匹か飛び出してくるところとか、マッチ箱のように小さいスクリーンじゃまったくだめ。
この、遠方から富豪の家の居間を撮る、というのは、最後のエピソードの伏線にもなっているから余計、小さくて見えないのが悲しい。
この富豪の家に入り込む貧しい一家が住んでいるのが半地下の部屋で、こちらは上方にある窓から見た外の景色しか映らない。外からではこの半地下の部屋はほとんどわからない。この半地下の見え方と、富豪の家の居間を遠方から見るロングショットが、貧富の差を表現している。
ストーリーは途中で逆転が起こったときに、そのあとの展開は読めてしまった。なので、意外性はそれほどあるわけではないのだが、それでも知らないで見た方が絶対にいい。
この映画の場合、優れているのはストーリー以上にディテールで、たとえば、貧困がにおいで表現されるとか、水害が起きたときに貧しい人々は家が水につかり、日本同様、体育館みたいなところに避難して苦労しているのに、金持ちはのんきにパーティをしているといった対比が的確であり、みごとであり、水害と貧困を描いたつもりの某アニメの底の浅さがわかってしまう。
来年、映画館のスクリーンで再会したい。

「アイリッシュマン」は1970年代に失踪し、暗殺されたと思われていたトラック運転手組合の大立者、ジミー・ホッファと親しかったアイルランド系のフランク・シーラン(あだ名がアイリッシュマン)が告白した話を、シーランの死後にノンフィクションとして出版した本をもとにしている。
マーティン・スコセッシの映画で3時間半もあるというので、正直、退屈しないか心配だった。
コッポラとかレオーネなら3時間半あってもメリハリがあってドラマチックなので退屈はしないだろうが、スコセッシの作風だとそういうメリハリは期待できないので、途中で中だるみとかあるのではないかと思っていた。
見てみると、やっぱりスコセッシのいつもの作風なので、メリハリやドラマチックな展開はないのだが、飽きることはなかった。
いや、それどころか、私はこの映画が好きになった、というか、見終わって時間がたつにつれてじわじわと好きな気持ちがわきあがってきたのだ。
私はスコセッシの映画はもちろん、すばらしいと思うけれど、好きかどうかということになると、他の好きな監督の作品のようには好きとは言えなかった。頭では感心するけれど、心はさほど動いていない、というか。
だが、この「アイリッシュマン」には「好きだ」という気持ちがわきあがってきた。
どこが好きかというと、それはやはりシーラン(ロバート・デ・ニーロ)とホッファ(アル・パチーノ)の関係だろう。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のデ・ニーロとジェームズ・ウッズの関係のような、いわゆるホモソーシャルな男同士の絆なのだが、スコセッシが描くと少し違ってくる。
そもそもスコセッシはギャングの世界を男ばかりが幅をきかせている世界として描いている。「アイリッシュマン」は徹頭徹尾、スーツを着た男たちが画面を占領し、女性の入る余地はあまりない。印象に残るのはシーランの娘くらいだ。「ワンス・アポン~」が魅力的な女性たちを多く登場させていたのとは正反対である。
スコセッシは女性を軽視しているのか、というと、それはまったく違う。むしろ逆で、レオーネなどが男同士の友情や絆を描くとき、魅力的な女性を出すのは、それでカムフラージュをしているというか、女性を出すことで男の友情や絆に酔っていることをなんとかごまかすみたいなところがある(これはこれで魅力的で、好きなのだが)。スコセッシはそういうことをいっさいしないのだ。日本の政界や経済界やいろいろな世界がスーツを着た男ばかりだということが指摘されるが、アメリカの当時のギャングの世界もそうだということを正直に表している。女性を主要人物に加えることでごまかしたりしていない。
にもかかわらず、この映画のシーランとホッファの関係は魅力的だ。十分おっさんになってから知り合った2人は、ツインルームでパジャマ姿でベッドで語り合うとか、語り合っている内容は仕事の話なのだが、おっさんずラブではまったくないのだが、なんとも奇妙な雰囲気で、それがその後の2人の絆へとつながっていく。
以下ネタバレ。
かたくなに組合を支配したがるホッファが邪魔になったギャングたちは、シーランにホッファを暗殺するよう指示する。ホッファを説得してなんとか助けたいと思っていたシーランだが、組織の命令には逆らえない(スーツの男たちの世界とはそういうものだ)。デ・ニーロの流す一筋の涙。しかし後戻りはできない。
胸を打たれるのは、ホッファがシーランを全面的に信頼していて、疑うことを知らないことだ。
「俺の組合だ」と主張し続けるホッファは、パチーノが得意とするシェイクスピアの悲劇の主人公を思わせる。
パチーノがスコセッシの映画に出演するのはこれが初めてだが、もともとスコセッシの作風にパチーノは合わないと思っていた。だが、この映画のパチーノはこれまでとは違う魅力を放っている。いつもの演技なのだが、スコセッシの演出が新たな魅力を加えている。
キネマ旬報最新号の「アイリッシュマン」特集の冒頭に、ハグしあうデ・ニーロとスコセッシの背後でパチーノがカメラ目線で微笑んでいる写真があるが、映画そのものを表したような、とても好きな写真である。
CGで俳優の顔を若返らせているシーンは違和感があった。