2023年7月8日土曜日

「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(ネタバレ大有り)

 昨年、近場の映画館でやっていたのだけど、3時間20分もあるので、コロナ怖いと思い、見るのを見送った「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」。そして今年、また同じ映画館で1週間だけ上映されることになり、コロナの状況は去年と変わらないけれど、今回見逃すともう映画館で見られないかもしれないと思い、出かけた。

久々の柏。うちの近所より物価が安いので、ついつい日用品を買い込んでしまう。街中は人が多い。映画館も思ったより人がいた。





さて、この映画、いろいろと謎めいた部分があって、どういう解釈がなされているのか興味があるのだけど、検索して知る前に、自分なりの解釈を披露してみたい。ということで、ネタバレ大有りで行きます。

まず驚いたのは、平凡な主婦の日常と聞いていたのに、のっけから主人公の主婦ジャンヌが売春してるのだ!

ジャンヌは6年前に夫が他界し、高校生くらいの息子とアパートで二人暮らし。こまめに部屋の電気を消すなど、貧乏な感じ。服も地味。料理するときに着る服のしわとかタオルの汚れとかすごくリアル。ジャンヌを演じるデルフィーヌ・セイリグが美人なのでそれほど貧乏くさくはないのだけれど、夫がいなくて、ジャンヌも働いていなくて、息子が高校生では。

それでも最初の日に来た男は上品なやさしそうな老紳士で、売春したあともジャンヌはそれまでと変わらない。料理をし、息子と夕食を食べ、という生活。老紳士は「また来週」と言っていたが、適度にロマンスを楽しんでお金を稼いでいるのかな、とこのときはそう思った。

2日目、息子が学校へ行ったあと、ジャンヌは息子のベッドをたたんで一人用のソファにし(これがかなりびっくり)、その後、買い物に行ったりカフェでくつろいだり、赤ん坊を預かったりする。そして昼下がりに別の男がやってくる。口ひげを生やしたちょっとワルっぽい感じの男。前日の老紳士とは大違い。男は「次は木曜日に」と言って去る。そのあと、ジャンヌの様子がおかしくなる。じゃがいもをむきながら苛立たしい表情になり、その後もミスをするようになる。

3日目、毎日のルーティンをこなすジャンヌだが、明らかに彼女はおかしくなっている。そして、第3の男がやってくる。口ひげをはやした男で、2日目の男のようなワルっぽさはない。

最初の男と2番目の男はジャンヌの寝室に入ったあとの描写はなく、事前と事後しか描かれないが、この3番目の男はいきなり寝室の描写になる。

寝室自体はジャンヌだけがいるときに描写されていたが、ここには彼女と夫が写った写真が飾ってある。夫は口ひげをはやしている。

男と寝たあと、ジャンヌはいきなりハサミで男を刺し殺してしまう。そのあと、暗い部屋の中でじっとしているジャンヌの顔を正面から映す描写が長く続き、その途中で彼女は笑うような表情もする。そしてエンド。

男と寝ているとき、ジャンヌはエクスタシーを感じたようにも見え、また、それを嫌悪しているようにも見える。

実は、彼女と息子の会話の中で、息子がセックスに対する嫌悪感をあらわにする場面がある。子どもがどうしてできるかを知ったときに嫌悪感を感じ、さらに快楽だけのためにセックスすることに不快感を感じたという。そして、そのような快楽のためのセックスをした父親が死んだのは天罰だ、とも言う。

高校生の少年が言うせりふとしてはなんか変だな、と思う。

これはジャンヌが感じていたことではないのだろうか。

ジャンヌは昼間、赤ん坊を預かるが、彼女が赤ん坊を抱くと赤ん坊は激しく泣く。かかわらなければ静か。彼女は赤ん坊に嫌われているようだ。

これはつまり、ジャンヌがセックスや出産、赤ん坊に対して嫌悪感を感じていることのあらわれなのではないか?

それはすなわり、女性は男性を愛し、結婚し、子どもを産み、夫や子どものために家事をして尽くす、という昔ながらの女性観に対する嫌悪である。

ただの主婦にしかなれなかったジャンヌはこの女性観に縛られ、それゆえに苛立ちや嫌悪感を感じていたのだろう。さらには、男性とのセックスに対する嫌悪感もあったのかもしれない。

そうしてみると、2番目の男のせいでおかしくなり、3番目の男を殺してしまい、そのとき常にあったのは夫の写真、という道筋がよくわかる。

固定されたカメラの長回し、デルフィーヌ・セイリグの表情の名演技など、映画的に注目するところも多いが、この映画、実は現実ではないのでは、と私は思った。

タイトルにある23番地にジャンヌのアパートがない、というシーンが2回もあったのだ。

ジャンヌがアパートに帰ってくるとき、映像は手前の郵便受けのあたりにピントが合っていて、奥の真ん中のエレベーターのところはぼけている、というシーンが何度も出てくる。そして、ジャンヌが歩道を歩いて行くシーン(ここでは2人の子どもがジャンヌのそばを歩いている)、ここも手前にピントが合っていて、奥の中央がぼけているので、ジャンヌと子どもたちがだんだんぼけていくのである。(このあたり、もしかして、映画館でないとはっきりわからなかったりして?)

この映画そのものがジャンヌの幻想なのではないかと感じさせるシーンの数々だ。そして、毎朝、息子のベッドをたたんで一人用のソファにするというのも、息子はほんとうに存在するのだろうか、ということを感じさせる。

上にアップした写真で、映画館に降りていく階段のところのポスター、「シャンタル・アケルマン映画祭」の隣に「TAR/ター」があるけれど、ちょっと、「ター」を連想する。あの映画も女性がおかしくなっていく映画だった。

もうひとつ、特徴的だったのは、日常の物音や騒音が強調されていたこと。外の車の音や家事をするときの物音が常に響いている。特に家事の物音が大きい。映像以上に音がものを言っている感じさえあった、のだが、近くにいた人の携帯の着信音が2回も鳴り響いたので、ぶち壊しだった。なんでマナーモードにしとかないのかな。派手な音が2回も鳴り響くからほんと、迷惑だった。普通、1回目が鳴ったときに音を消すものではないの?

あと気になったのは、3日目にジャンヌがひき肉をこねて作ったでっかいハンバーグみたいなもの。あれはどういう料理になる予定だったのだろう。