2010年10月30日土曜日

たまにはホッケーネタ行ってみようかね

 負け続けのセイバーズの試合の話はしたくないけど、セイバーズの殿堂入りの話題ならよいでしょう。
 2011年の殿堂入りは、アレクサンダー・モギルニーとジム・ケリーだそうです。来年1月1日のブルーインズ戦の前にセレモニーをするらしい。
 ご存知、モギルニーは、まだ東西冷戦、鉄のカーテンがあった時代に、セイバーズによってドラフト指名を受けたソ連(当時)の選手。生まれはシベリアとかで、わりと日本に近い方だったみたいですね。指名した当時(1988年)はペレストロイカの時代だったとはいえ、ソ連や東欧の共産圏の選手が北米へ行けるかどうかは賭けだったのですが、それでもセイバーズは指名。そして、NHLでプレーしたかったモギルニーは、1989年、世界選手権のときに亡命、KGBを避けるためにセイバーズのGMと毎晩ホテルを替えての逃避行の末にアメリカに渡ったのでした(スパイ小説さながらだね)。
 モギルニーは家族やチームメイトが逮捕されたりしないか、心配だったそうですが、時代はやはり変わっていて、半年後にはソ連に里帰りできたそうです。以後、ソ連東欧の選手が続々と北米へ渡ることになります。
 貧乏チームのセイバーズは数年後には年俸の高くなったモギルニーを手放すことになるのですが、それまでの期間、ラフォンテーヌと組んで大活躍。パワープレーではこの2人にアンドレイチャクが加わって、最強のPPラインだったらしい。
 もう1人のジム・ケリーですが、この人は「バッファロー・ニュース」の記者だった人ですが、なんといっても、1997年のプレーオフ、そうです、あの、オタワとのファーストラウンド、デレク・プラントのOTゴールで勝ちぬけたファンの記憶に残るシリーズの真っ最中に、ハシェックと対立、ハシェックにシャツを破られる暴行を受けたという人。ケリーは当時、セイバーズの番記者で、非常に優秀な記者だったようですが、あの時代はハシェックとテッド・ノーランHCが対立していて、ぐっちょんぐっちょんの時代だったんですが、ケリーはハシェックを執拗に批判していた記者だったのです。特にあのオタワとのシリーズでは、ハシェックが試合の途中でいきなり自ら降板。ハシェックはケガが多い人なんで、このときもケガだったらしいんですが、それをケリーが本当にケガなのかとか聞いて、怒ったハシェックが、という顛末なのだけど、でも、ケリーはこのときは単にケガかと聞いただけで、怒るような状況じゃなかった、原因はその直前にあったのではないか、とも言われています。この時代のぐっちょんぐっちょんについては当事者しかわからないような謎の部分が多く、ファンもいまだに首を傾げることがあるようです。たぶん、デレクは知ってただろうね。とにかく、これでハシェックはサスペンド(実際はケガで出場は無理だったが)、危機に陥ったセイバーズを第7戦で救ったのがデレク、というドラマチックな結果になったのでした。
 この話は前のさーべる倶楽部(1から3のどれか)には何度も書いたし、モギルニーのことも書いたと思うけど、どこにあるかは私も探さないとわかりません。検索すれば出てくるかも。
 モギルニーはすでにNHLを引退、ケリーもバッファローを離れて久しいのですが、モギルニーとケリーなら一緒にセレモニーやっても問題ないでしょう。