2018年1月26日金曜日

「ビガイルド」「聖なる鹿殺し」「ワンダーストラック」

2日間で試写3本。久々の試写。調べてみたら、去年の11月中旬以来だった。
「ビガイルド 欲望のめざめ」と「聖なる鹿殺し」はどちらもコリン・ファレル、ニコール・キッドマン主演。2日連続この2人の映画を見てしまった。
「ビガイルド」はクリント・イーストウッド主演で映画化された「白い肌の異常な夜」と同じ原作。実はイーストウッド版は見てないのだけれど、こちらのソフィア・コッポラ監督版は女性の視点がとてもよくわかる。南北戦争時代の南部の女子学園が舞台で、園長(キッドマン)と教師(キルスティ・ダンスト)、5人の女生徒(1人はエル・ファニング)だけがいるところへ北軍兵士のファレルが負傷して担ぎ込まれる。ハンサムな兵士に女性たちはメロメロになり、おしゃれをしたり彼の気をひこうとしたり。が、兵士と女性たちが接近しすぎてある事件が起き、その結果、兵士が凶暴になり、女性たちは恐怖から彼を排除することにする。
これ、完全に女性の視点だというのがよくわかる。特に翌日同じ主演者の「聖なる鹿殺し」を見たら、男性監督のこっちも女性が男性を誘惑するシーンがあるのだけれど、誘惑のしかたや男にひかれる女たちの様子がこっちは完全に男性目線。女が男を誘惑する仕方が完全に男目線の妄想。それに比べ、「ビガイルド」の兵士にひかれる女たちの姿は現実の女性たちと比べて非常に自然。そして、いったん男が凶暴になると、もうこれは危険だから排除しなければ、となるのも女性らしい。男の凶暴さも女性目線で、女性なら恐いの当然な描き方。
それ以外でもソフィア・コッポラらしいおしゃれな雰囲気がたっぷりで、また、映像も古典文学的な雰囲気がある。

「聖なる鹿殺し」はギリシャ神話の聖なる鹿殺しの話が背景にあるようだけれど、映画の中では説明されない。聖なる鹿を殺したために女神の怒りを買い、娘を生贄にしなければならなくなる将軍の話で、映画では父親が外科医のミスで死亡した少年の復讐のような話になっている。
外科医(ファレル)は当時アルコール依存症で、手術の前にも酒を飲んでいて、それでミスをしたのだった。今は母と二人暮らしの少年と時々会うようになり、家にも呼ぶ。が、やがて幼い息子の両足がマヒし、次にはローティーンの娘の足がマヒして、2人の子供が寝たきりになってしまう。少年は、息子と娘と妻(キッドマン)の誰か1人を殺さないと3人とも死ぬと外科医に言う。
「ビガイルド」の方はカンヌ映画祭で監督賞受賞、この「聖なる鹿殺し」は脚本賞受賞なのだが、「聖なる鹿殺し」の方はとにかく陰鬱な話で、音楽がまた怖い。どちらもホラー的で陰惨な話だけれど、「聖なる鹿殺し」の方は何か今一つの感がある。足がマヒするというのも少年が超能力でやってるとしか説明できないのだが、そういう超能力者ってふうにも見えない。どう見たって普通なら警察出てくるだろう、というような展開でも警察出てこないし。つまり、現実離れしているのだ。
この辺がまあ、不条理劇として面白いと思うか、つまらないと思うかの分かれ目だろうと思う。私には底の浅い話に見えた。

「聖なる鹿殺し」が後味悪すぎたので、口直しに「ワンダーストラック」を見に行った。こちらは文科省選定なので安心、と思ったけれど、安心しすぎて(?)ちょっと眠くなる。トッド・ヘインズは「キャロル」などで50年代の映画のスタイルを模していたが、こちらは1977年と1927年の2つの話が交互に描かれ、1977年はいかにも70年代ふう、そして1927年はモノクロのサイレント映画ふうになっている。
物語は1977年の少年と1927年の少女がニューヨークへ行く話。少年は父親を探しに、少女は女優の母親に会いに行く。少年は出かける前に雷の直撃を受けて耳が聞こえなくなっているが、少女は最初から耳が聞こえないという設定。で、わりと早い段階で少女と少年の関係がわかってしまうのだ。だからその後の話に意外性がなく、結末はわかっているのにだらだらと道草を食っているように見えてしまう。原作は児童文学だが、ヘインズは児童文学は向かないのかもしれない。博物館がモチーフになっているが、こういうの、別の監督がやったらもっとうまくいったのでは、と思ってしまう。1977年の部分は音楽をはじめ、私の世代にはなつかしいものがたくさんあったけれど。