2018年3月29日木曜日

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」

郊外に転居してから試写室が遠くなり、行くのがおっくうになることが多くなった。
カンヌ映画祭パルムドールの「ザ・スクエア 思いやりの聖域」も、行くべきかどうか迷った。というのは、カンヌ映画祭で受賞した「ビガイルド」や「聖なる鹿殺し」がまあまあな出来で、映画祭の受賞の信頼度が私の中ではかなり崩れている。
そんなわけでこの映画もまだ試写があるからとなかなか行かず、ようやく最終日に行ったらやはり大混雑。運よく見られたけど、うーん、やっぱりまあまあな出来であった。
プレスシートに古市なんとかいう自称社会学者のマスコミ芸人の文章がはさまれていたが、高校生だってもっとまともな文章を書くだろうと思う。こういうのがあると余計映画の印象が悪くなる。

映画の内容は、美術館の参加型アートを企画するキュレーター、クリスティアンが美術館の前庭に四角いスペースを作り、そこを「信頼と思いやりの聖域」として、そこに入る人は誰でも平等に権利と義務を持ち、そこにいる人が助けを求めたら助けないといけない、と規定する。
過去に実際にそういうアートが展示されたことがあるそうだ。
映画ではこの四角いスペースの展示自体はあまり出てこない。むしろ、信頼と思いやりの聖域などと言いながら、実生活ではスマホと財布を盗んだ人物の居場所が貧しい移民の集合住宅であることをつきとめ、すべての部屋のポストに脅迫状を入れてスマホと財布を取り戻すとか、モラルも何もない非常識な男。普通は警察に連絡してなんとかするもんだろう。しかも脅迫状を出そうと提案した部下と変なノリで脅迫状を始め、あとになってどっちが投函しに行くかでもめたりとか、大人のやることか、って感じ。案の定、無実の少年が脅迫状で被害を受けたと抗議しにくるが、それに対する対応も全然モラルがない。
クリスティアンは後半になって良心に目覚め、少年に謝罪しようとするのだが、その集合住宅に行ってみると、というのが結末(ネタバレはなし)。
その間、アートの広告係が「思いやりの聖域」を宣伝するためにテーマとは全く逆の映像を作り、それをYouTubeに流して大問題になったり、クリスティアンはパーティでゴリラのまねをする男が傍若無人にふるまうような演出をしたり、と、アートにおける表現の自由なのかやりすぎなのかというテーマが描かれる。
広告係が作った映像は物乞いの少女と猫がその聖域の中で爆死するというショッキングなもので、人目を引くためには何でもするということを表しているのだが、ちょっと荒唐無稽で現実味がないし、このエピソードも発展しないで終わってしまう。むしろ、最近日本で問題になっている非常識なCMの方がメディアの怖さを感じるのだが、日本の場合は世界から見たら非常識すぎてネタにもならないのだろう。
パーティでゴリラのまねをする男のエピソードはクリスティアンが途中で終わりにしようとしてもだめで、ついには男が女性をレイプしようとして、止めに入った男たちが男に暴力をふるうという結果になる。が、これもその後どうなったかは何もなし。アートだと思って我慢していた客たちが突然暴力をふるう、という点がちょっと面白い程度。
その前に、講演会でおかしな客が悪口や卑猥な言葉を投げつけるが、これも制止するどころか、病気なので我慢してくれというふうになるというエピソードもあり、これとゴリラ男のエピソードがつながると言えばつながる。どこまで行儀よく我慢するかというテーマだ。
映画では物乞いをする人々があちこちにいる様子が描かれる。彼らは助けを求めているのだが、クリスティアンは無視することが多い(たまには何かしてやるが)。「思いやりの聖域」などないこと、助けを求める人がいてもたいていは無視することが描かれていると言える。
そうした中で、「思いやりの聖域」などというアートを展示することの偽善性が描かれているのだろうが、そもそも、四角いスペースの中では人助けしなければいけないということは、その外では助けなくていいということでもある。電車に優先席ができたら、それ以外の席は譲らなくていいようになった、という批判がかつてあったのを思い出した(当時はまだ優先席は優先席だったのだが、現在は優先席自体が優先席でなくなっている)。
とまあ、こういった内容の映画なのだが、見ている間、最近日本で起こったアートをめぐる2つの事件が頭を離れなかった。
1つは、どこかの工業大学の学生が作った木造のジャングルジムのアートで幼い子供が焼死したこと。子供が遊べる参加型のアートで、おがくずがまかれ、そこに強いライトを照らしたので火がつき、あっという間に燃えて、中にいた子供が亡くなったという悲惨な事故だ。
もう1つは、ある団体が企画したブラックボックスのアートで、参加者は1000円を払って中に入るが、そこはただの真っ暗な部屋。参加者はアートの展示中はほんとうのこと(中は真っ暗なだけ)を言わないこと、嘘はいくらついてもいい、という誓約書にサインさせられる。しかも、来た人全員が中に入れるのではなく、黒人男性が選別することになっていて、カップルだと男ははじかれ、女だけ入るとか、体育会系の男性グループは全員はじかれた、明らかに女を優先的に入れている、といった情報があった。そして、その暗い部屋の中で女性が痴漢にあうということが頻発し、警察沙汰にもなりかけた。
このほか、アートの展示の中でデリヘル嬢を呼ぶ、という企画が大きな批判を浴びて中止になったこともあった(デリヘル嬢はアートとは知らずに呼ばれるのだ)。
こんなふうに参加型のアートのいかがわしい事件をいくつか目にしていたので、この映画を見てもあまり衝撃的ではなかったというのが本当のところだ。むしろ、現実の方がずっと進んでいるように思えた。
もともとモラルのないいかがわしい男であるクリスティアンが、最後の最後になって良心に目覚める、そこが肝なのだと思うが、それまでのアートの表現の自由だの、思いやりだののテーマがどうにも上滑りしているようにしか思えなかった。