2018年3月18日日曜日

「空海(妖猫傳)」&試写2本

木曜日は「空海」こと「妖猫傳」吹替え版4回目を見て、翌金曜日は試写のハシゴ。
「空海」は前日に中国語版日本語字幕が24日から上映されると知りましたが、木曜の分をすでに予約してあったので見に行きました。
吹替え版はこれが4度目で、最初の週はどこも大箱で上映していたけれど次の週からどんどん小箱にされていて、2回目と3回目(2週目)は1回目とは別のシネコンがまだ大箱だったのでそこへ行き、3週目はそこも小箱になったので、またまた別のシネコンを探してそこを予約(4回目)。もう、これはほんとに大きいスクリーンで見ないとだめです。
中国語版もこの時期だと小箱になってしまうかもしれないから、吹替えでもとにかく大箱のところへ行っておけてよかった。

私の場合、「空海」は、
1 吹替えしかやらないのか、じゃあ、見るのやめた。
2 猫映画? じゃ、見よう。
3 その世界にはまる。
4 ネットで中国語版を見る。
5 中国語の雰囲気がわかったので、それを頭に入れて吹替え版をリピート。
という推移ですね。あとはもう映画館で中国語版を見るのが楽しみ。

さて、中国語版日本語字幕ですが、字幕版ではなくインターナショナル版となっているのは、日本語吹替え版がインターナショナル版とは違う、日本国内版だからです。
インターナショナルの反対はドメスティックっていうんですが、国内版のことです。
他の例では「ブレードランナー」が初公開されたとき、アメリカ国内版とインターナショナル版の両方が作られ、日本ではインターナショナル版が公開されました。どこが違うかというと、当時はアメリカは残酷なシーンへの規制がきびしく、他の国はそうでなかったので、インターナショナル版の方には国内版にない残酷シーンがあるのです(今は日本も含め、世界的にきびしい)。
「空海」は日本国内版は132分、インターナショナル版は129分となっていますが、この3分は最初の歴史解説でしょう。あとは違うところは、楊貴妃と阿倍仲麻呂が対話するシーンでRADWIMPSの挿入歌が流れることで、インターナショナル版にはこれはありません(エンドロールの主題歌のみ)。タイトルの文字とエンドロールも日本独自のものですが、インターナショナル版だと最初に出る俳優名が黄軒(ホアン・シュアン)で、日本国内版は染谷将太だったので、こういう違いがあります。メインタイトルのバックは同じです。日本側としては染谷将太が最初じゃないといやだったんでしょうね。まあ、映画見ると染谷の空海の方が黄の白楽天よりやや主役かな、という感じしますが(まあ、本当の主役は猫だし)。
インターナショナル版は日本人同士の会話は本人の日本語で、染谷と阿部寛の中国語が吹替えです。ただし、口の動きが中国語になっているように、特に染谷は相当勉強したようです。染谷役の中国人声優さんが有名な人らしいのですが、阿部寛役の声優を決めるのに50人くらいオーディションしたそうで、どうりで雰囲気ぴったりの声です。

試写のハシゴはドイツのファティ・アキン監督の「女は二度決断する」とドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」。
「女は二度決断する」は主演のダイアン・クルーガーが初めて母国語のドイツ語で演技してカンヌ映画祭主演女優賞を受賞。アキン監督の映画、そんなにたくさん見ているわけではないですが、これまでに見たのはどれもほのぼのとしていたのに、これはドイツのネオナチによる移民へのテロを扱っているので暗い。しかも最後が救いがない。警察の移民への偏見や、ヒロインの実母と義母(夫の母)のひどい態度など、心がささくれだつようなシーンの連続。テロでヒロインの夫と息子を殺した犯人が捕まり裁判になるも証拠不十分で無罪、という救いのない展開で、そのあとがまた救いがないのですが、描写に少し疑問を感じるところもあります。あれだけのテロでほかに被害者はいなかったのか? 目撃者はヒロインだけなのか? 無罪になるのはちょっと単純すぎる気もします。そして、そのあとの展開もこれでいいのかという疑問が残ります。
「フジコ・ヘミングの時間」は、若い頃にピアニストとして認められそうになったときに聴力を失い、以後、ピアノ教師として生活してきたフジコが60代なかばでテレビで紹介されたのがきっかけで大ブレイク、20年近くたった今も人気ピアニストとして活躍している彼女の人生や家族、そして現在の生活を紹介するもの。正直、ドキュメンタリーとしてあまり面白くないです。フジコの演奏はすばらしいけれど、その演奏が細切れで、しかも演奏にナレーションをかぶせるという、彼女の演奏を聴かせる作りになっていない。14歳のときの絵日記とか、ファンには喜ばれるのかもしれないけど、彼女の演奏の魅力にもっと迫ってほしかった。作っている人があまりそういうところに興味がないのかな、と思ってしまう。彼女の演奏法は指をあまり曲げずに弾くタイプで、私の好きなサンソン・フランソワと同じタイプで、音もそういった演奏法をするピアニストの魅力にあふれています。でも、映画ではそういう音楽的な切り口はいっさいなくて、こういう紹介のされ方ばかりだから一部からテレビで有名になっただけみたいなことを言われるのかな、と思ってしまうという、残念な出来栄えです。