2011年9月6日火曜日

映画のこととか

 先週は重い映画を3本も見てしまい、いろいろ考えたのだけれど、どうも文章にできない。とりあえず、メモ的な紹介だけでも書いておきます。「サラの鍵」についてはネタバレありです。

 まずはマイク・リーの「家族の庭」。イギリスの老夫婦とその周辺の人々の人間模様で、マイク・リーらしい演出が光る秀作。老夫婦が主人公のように見えて、最後は夫婦の友人の中年女性が中心にいるという、このラストがなんとも秀逸なのだけれど、この中年女性がいわゆる「痛い女性」で、しかも、こういう女性って、けっこう身近にいたりするので、映画を超えて現実の世界にまでドラマがはみ出してくる感じがあります。他の人物も、老夫婦と息子以外はどこかしら「痛い」ところがあって、彼らもまた、身近な誰かを思い出させたりと、面白い映画なのですが、フィクションに終わらない感覚がまたなんとも言えない。これはすばらしい秀作です。

 次に見たのは、カナダのフランス語圏の映画「灼熱の魂」。「未来を生きる君たちへ」とアカデミー賞外国語映画賞を争った作品。原作は子供の頃にレバノンから内戦を逃れて移住してきた中東系カナダ人の劇作家の書いた劇で、日本でもすでに上演されたそうです。
 物語はカナダに住む中東出身の女性がプールサイドで突然、放心状態になり、謎の遺言を残して死んでしまう、というところから始まる。女性には双子の娘と息子がいて、2人は母親から、父親と兄を探して手紙を渡せ、という遺言を受け取る。父親のことも兄のことも何も知らなかった姉弟は驚くが、まず姉が母の故郷の中東の某国へ行ってある事実をつかみ、そのあと、今度は弟がやってきて、さらに事実を知る。そして、兄と父親に関する衝撃の事実が、というわけで、その最後の部分はネタバレ禁止令が出されております。
 この中東の国は原作者の生まれたレバノンがモデルで、レバノンはキリスト教右派がイスラム教徒の難民を迫害し、そこからキリスト教徒とイスラム教徒の内戦が起こっていた国。母親はキリスト教徒だったが、イスラム教の難民と恋に落ち、息子を産むが、恋人は殺され、子供とも引き裂かれる。いつか息子を探し出す、と誓った彼女は、その後、数奇な運命を経て、双子を産み、双子とともにカナダへ移住したことがわかるのですが、そうした中から、中東の国の宗教対立やキリスト教右派による弾圧、迫害、虐殺、それに対抗するイスラム側のテロなどが描かれていきます。
 映画は母親の過去を探る姉弟のシーンと、母親の若い頃のシーンが交互に登場するというパターンで、演出は荒削りというか、あまり洗練を感じないのだけれど、迫力があるので見入ってしまいます。物語りも面白い。しかし、最後になって、その、ネタバレするなという衝撃の事実がわかると、なんというか、ある種のあざとさを感じて、私は率直に感動できませんでした。
 次に書く「サラの鍵」もそうなのですが、この母親は事実を子供たちに探らせるけれど、事実を知ることによって傷つくのは子供たちなのです。すでに30歳くらいになっているとはいえ、カナダで何不自由なく暮らしてきた中東系カナダ人の姉弟が、中東の国の悲惨な歴史を知るだけでなく、非常に個人的なところで傷つくのです。そして、探しあてた兄も傷つく、いや、この兄が一番傷つくのではないかと思う。
 弟は最初、事実を知りたくない、と、中東へ行くことを拒みますが、姉の方は母の遺言に従って事実を知ろうとします。これも「サラの鍵」と重なるのですが、女性はどんなにつらくても事実を知ろうとするのに、男性は尻込みするというパターンです。

 というところで、3本目の「サラの鍵」へ行きます。これはすでに原作の小説が翻訳されていて、大変評判がよいようですが、私は読んでいません。が、原作とあまり違ってはいないようです。
 こちらは第二次大戦中、フランスが自ら行ったユダヤ人迫害の史実をもとにした話で、フランス人と結婚し、パリに住むアメリカ人女性が、夫の家族の持つアパートにかつてユダヤ人の一家が住んでいて、彼らがフランスの警察によって収容所へ送られたことを知ります。ジャーナリストであるアメリカ人女性はこの一家について調べ始め、この一家の幼い娘サラを探します。「灼熱の魂」と同じく、この映画も、現代のアメリカ人女性の部分と、過去のサラの時代とを並行して描きます。
 アメリカ人女性がユダヤ人一家について調べ始めると、夫やその家族はあまりいい顔をしません。過去をほじくり返されたくない、そんなことをしてもみんなが傷つくだけだ、というわけです。それでもアメリカ人女性は調査を続け、ユダヤ人一家の住んでいたアパートを手に入れた夫の祖父母に罪はなく、むしろ祖父はよいことをしていたこともわかります。運良く収容所に送られなかったサラは、善意のフランス人たちによって助けられたこと、戦後、アメリカに渡ったことなどもわかります。そして、サラに息子がいることがわかり、ヒロインが彼に会うと、彼は、自分の母親がユダヤ人だとわかってショックを受けます。
 この映画も監督がまだ新人で、あまりうまくないというか、「灼熱の魂」のような荒削りな迫力にも欠け、さらりときれいにまとめました、といった感じになっているのが不満です。過去に触れられたくないフランス人、母親がユダヤ人だと知ってショックを受ける息子、といった具合に、知らなきゃよかった、でも、知るべきですよ、といったテーマがまさに「灼熱の魂」と同じ。ただ、「灼熱の魂」の最後の衝撃の事実に比べると、こちらは本来は善意の人たちが事実に目をそらしている、そういった感じで描かれているため、全体に口当たりのいいできばえになっています(原作はそうではないかもしれない)。
 一方、「灼熱の魂」にはそうした口当たりのよさはなく、ここまでやるのか、といった感じさえある。ネタバレできないのだが、ちょっと偶然の一致ありすぎ、とか、ここまでやるとあざとさが、とか思ってしまう。中東の問題はここまで衝撃的にしないとその悲惨さが理解できないのだ、と、中東出身の原作者は思っているのかもしれない。その辺、原作の劇を知らないのでわからないのですが、あざといのか、必要な衝撃なのか、その辺がまだ判断ができないでいます。
 「灼熱の魂」も、「サラの鍵」も、悲惨な時代にはまだ生まれていなかった人や、生まれていても本人の責任や罪があるとはいえない人でも、残酷な事実を知らなければならない、たとえそのことでひどく傷ついても、ということを訴えかけている。つまり、生まれていなかったとか、当時は子供だったから、とかいう理由で、事実を知ることの苦痛から逃れてはいけないと言っているのです。
 この辺が、私は、そのとおりだ、と胸をはっていえるほど聖人ではない。歴史を知るとか、過去の事実を知るとかいうレベルならそうだと思うけれど、この2本の映画では、それは個人のプライバシーにまで突き刺さるものだから。
 気になるのは、「サラの鍵」で過去を調べる主人公がアメリカ人女性だということで、彼女は過去の事実についてはまったくの無実なのでしょうか。映画だと、問題の外にいる人がフランスの人々を断罪しているように見えてしまうのですが。
 「灼熱の魂」では、事実を探る姉弟は深く傷つきます。しかし、一番傷つくのはおそらく兄だろうと思うと、カナダで何不自由なくすごしてきた姉弟が、中東で悲惨な子供時代を送った兄を断罪しているようにも見えてしまいます。
 罪や責任から逃れていられる平和な国の人に断罪する権利があるのだろうかと、この2本を見て考えました。答えはまだ出ていません。
 事実を知らせたことの結果がどうなるのか。「灼熱の魂」ならば、母親の3人の子供はその後、どう生きるのか。「サラの鍵」ならば、自分の所有するアパートに悲惨な過去があったとわかった家族はどうするのか。「サラの鍵」の終わり方はずいぶんと能天気だった気がします。

「サラの鍵」「灼熱の魂」追記
 「サラの鍵」の映画と原作について、英語のサイトで調べたところ、アメリカのアマゾンの原作ページに興味深いレビューと、そして多数のコメントが出ていました。当然ですが、英語です。
http://www.amazon.com/review/RU61S2OKX54PK/ref=cm_cr_pr_viewpnt#RU61S2OKX54PK
 映画にしろ、原作にしろ、あちらで批判されているのは、サラの部分はいいのに、現代の部分がつまらないということ。サラの話が途中で立ち消えになって現代の女性の話になるが、本当はサラのその後をもっと書くべきだったということ。そして、当時、生まれてもいなかった人にまで責任を問うのはどうかという意見も。
 また、上のページの一番下にあるコメントでは、ホロコーストの生存者の中には、自分の体験を話すことで子供たちに重荷を背負わせたくないと思い、決して話さない人も多いことを指摘し、アメリカ人女性がサラの息子にサラのホロコースト体験を教えることを批判しています。サラが息子に自分の過去を話さなかったのはサラの決めたことで、それを赤の他人の女性が教えるのはよくない、歴史を教えることと家族の個人的なことに立ち入るのは別だ、と書いています。
 「灼熱の魂」は、母親が子供たちが真実を知るべきだと決めて遺言を残したのですが、「サラの鍵」ではサラは息子に何も話さなかった。まさに対照的な母の決定だったわけです。
 私は「灼熱の魂」を見て、母はなぜ子供たちに謎解きのようなことをさせるのか、子供たちに自分の過去を書いた手紙を残す方がリーズナブルではないかと思い、そこもあざとさだと感じたのですが、この2作にはどこかそういう不自然なところがあって、過去の事実を現代の人は知るべき、というテーマのまじめさは評価するものの、それを間違ったやり方やまずいやり方でやっているのではないかという感じがどうしてもぬぐえないのです。
 むしろ、サラの息子が自分の力で母の体験を探るのが正しい在り方ではないかと思います。
 そして、「灼熱の魂」では、母はむしろ過去を隠そうとしていたが、子供たちが真実を知りたいと思い、過去を探るのが本来の在り方ではなかったかと思うのです。

追記あります。http://sabreclub4.blogspot.com/2011/09/blog-post_121.html


 もう1つ、映画の話題。
 現在発売中の「キネマ旬報」9月下旬号は、原田芳雄の大特集や「スター・ウォーズ」対談など、なかなか読み応えがあるのですが、川本三郎氏が自身の連載ページの中で、あるテレビ番組の紹介雑誌の連載コラムで、原発問題を扱った原田芳雄主演の旧作「原子力戦争 LOST LOVE」を取り上げたところ、掲載を断られたと書いています。反原発や脱原発の芸能人が仕事を失っているという話をいくつか聞いていますが、テレビは電力会社に逆らえない、ということなのでしょう。川本氏は抗議の意味で連載をやめたそうです。