2011年9月6日火曜日

「映画のこととか」の追記など

 この記事の前の記事「映画のこととか」で、「家族の庭」、「灼熱の魂」、「サラの鍵」について書き、特に「灼熱の魂」と「サラの鍵」についてはかなり長く書き、その下に追記までつけましたが、まだ自分の考えがまとまっていない状態で書いたので、どうも支離滅裂なところがあります。その後、少し考えをまとめたので、それをここで追記します。
 前の記事http://sabreclub4.blogspot.com/2011/09/blog-post_06.html

 「家族の庭」で、主人公の老夫婦の友人の女性が「痛い女性」だと書きましたが、「灼熱の魂」の母親と「サラの鍵」のアメリカ人女性も、別の意味で「痛い女性」です。
 「家族の庭」の女性は性格や生き方がどうしようもなく「痛い」のですが、他の2本の女性は行動が「痛い」。「家族の庭」の女性と違って、自分は正しいことをしているという強い信念を持っているので、余計、「痛い」。
 下の記事の「追記」で書きましたが、「灼熱の魂」の母親は、手がかりを残して双子の姉弟に謎解きをさせて自分の過去を知らせるという、普通だったらやらないだろう、こんな手の込んだこと、と思うことをしている。知らせるなら、最初から手紙に全部書く方がよいだろうに。どうもこのあたりのミステリー仕立てがあざとい。
 「サラの鍵」では現代のアメリカ人女性がフランス政府が行ったユダヤ人迫害を調べていき、フランス人の夫とその家族、職場の同僚がそうしてことに無知であることをいけないとしているのですが、アメリカ人女性が自分は清廉潔白な立場でフランス人に対してそうしているというのがどうも受け入れがたい。
 だから、両方とも、悲惨な過去を生きた当事者の子供が自分の意思で過去を探るとする方がよかったのではないか、というのが前の記事の結論でした。
 この結論に達するのに非常に役立ったのが、アメリカのアマゾンの「サラの鍵」のユーザー書評だったわけです(前の記事にリンクあり)。
 これを読んで、映画「サラの鍵」は原作を誠実に映画化したのであって、映画を見て感じた問題点はすべて原作にあるらしいことがわかりました。「灼熱の魂」もおそらく、映画は原作を誠実に映画化したので、私の感じた問題はすべて原作のものなのでしょう。
 つまり、前の記事で書いた2本の映画についての感想は、映画よりは原作についてのことである可能性が高い。だから、原作を知らなければ、映画を評価できない、という結論に達しています。
 実際、「灼熱の魂」も、「サラの鍵」も、過去の社会問題を知らせるという役割は十分に果たしていて、しかも、映画として両方とも面白くできています。途中で飽きたりはしません。前の記事では批判的なことを書いてしまったけれど、その批判の対象はむしろ原作にあるとわかった以上、前に書いた批判は映画に対する批判ではないということになります。

 「痛い女性」という点では、「家族の庭」はリアルで、人間のさがを感じさせる優れた描写と演技です。「灼熱の魂」は、母親の若い頃のシーンでは女優がすばらしい演技をしています。この若い頃の部分はすばらしい。しかし、双子の子供たちに対して手がかりを残して事実を探らせたという現代の部分では、母親としてやることが不自然で、そこが「痛い」。「サラの鍵」も、少女サラの過去の部分は非常にいいのです。が、現代のアメリカ人女性の話になると、この女性が「痛い」感じになってくる。正しいということを金科玉条にして人に押し付けるのはやはり「痛い」。「灼熱の魂」の母親は不自然でしたが、こちらのアメリカ人女性はいかにもアメリカらしい「痛さ」だなあ、という気もします。ここを突き詰めたらもっとよくなったかも。

 前の記事の最後に、現在発売中の「キネマ旬報」について書きましたが、この号の「読者の映画評」に「モールス」の評が載っています。オリジナルのスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」と比べた評です。
 その前の号の「キネ旬」にプロが書いた「モールス」の映画評とクロスレビューが載っていたのですが、オリジナルにまったく触れていない、特に評論の方は、リメイクがオリジナルをそのままなぞったような映像になっているのに、それを知らずにあたかもこれが監督の個性であるかのように書いているのが問題だと、実は、「モールス」について書いた過去の記事にこっそり追記していました。
http://sabreclub4.blogspot.com/2011/06/blog-post_24.html
 そんなわけで、今号のキネ旬に読者がオリジナルときちんと比較した「モールス」評が載ったのは本当にうれしかったです。特に前半はまったく同感です。ただ、この読者がオリジナルの同性愛的な部分に気づいていないこと、リメイクでもその可能性があることを無視しているのには異論があり、結果、この読者の結論と私の結論は違ったものになっていますが、それでも、オリジナル無視のプロたちに対し、読者のこうした投稿が載ったのはよかったと思います。
 なお、「モールス」は原作の翻訳の邦題をそのまま使ったものですが、原作の邦題を「モールス」にしたのは、「モーリス」にあやかろうとしたためでしょう。オリジナルに「モーリス」のファンが好きな少年愛の世界が多少ともあるのは確かです。また、オリジナルで少年が少女の体の秘密を知るシーンに相当するシーンはリメイクにもあります。オリジナルを知っていると、というか、日本ではあのボカシが問題になっているわけですが、ボカシのないオリジナルを知っていると、リメイクのシーンをどうとらえるかは微妙な問題になってくると思います。私はこの部分をリメイクが変えて、異性愛にしたとは思いません。リメイクにはオリジナルへのリスペクトがあふれていて、こういう重要なところを、ぼかしはしても、変えるとは思えないからです。
 「ぼくのエリ 200歳の少女」について書いた「ネタバレした方がいい映画」にはアクセスが多いのですが、一応、リンクを。
http://sabreclub4.blogspot.com/2011/03/blog-post_05.html
 一方、「モールス」の記事にはアクセスが非常に少なく、関心の低さがうかがえます。