2011年9月7日水曜日

「サラの鍵」原作(ネタバレあり)

昨日は映画「サラの鍵」などについてさんざん書きましたが、とりあえず「サラの鍵」の原作を読んでみようと、区内の図書館を検索したところ、1ヶ所にありました。うちの区は大きな図書館がなくて、小さい図書館があちこちに散らばっているので、どこにどの本があるか調べないといけないのです。で、「サラの鍵」があった唯一の図書館は、地下鉄に乗り、隣の区の駅で別の地下鉄に乗り換えて、再び自分の区に入ったところが最寄り駅という場所。えらいめんどうな場所だな、と思いましたが、そのあたりは近くまで行ったことはあるけれど未知の場所。未知の場所へ行くのも楽しいと思い、行ってきました。
 結果は、行ってよかった、です。「サラの鍵」だけでなく、前から読みたかったけれど近所の図書館になかった分厚い上下本を借りられました。狭いわりには品揃えがいいというか、私好みのラインナップなのですね。しかも、利用者が少ないのか、本が妙に真新しい。貸し出し中でなかなか借りられない、なんてことも、ここは少ないのではないかと思いました。穴場です。
 で、「サラの鍵」ですが、あっという間に読んでしまいました。はっきり言って、これは通俗小説です。ホロコーストを扱っているからすべて高尚とは限らない。ホロコーストをテーマにした本の中では、これはそれほどレベルが高くないと思いました。ただ、フランスがユダヤ人迫害を率先して行っていたという事実をテーマにしたこと、通俗的な分、読みやすくわかりやすいことが人気の秘密だと思います。文学的な奥深さを期待すると裏切られます。
 原作は映画よりも説明が多いので、映画よりは納得できる部分もありました。が、やはり、主人公のアメリカ人女性ジャーナリスト、ジュリアが痛いというかうざいというか、それは最初から最後まであります。ジュリアの行動に釘を刺す人物がいたり、ジュリア自身も反省したりしていますが、このジュリアの部分(全体の半分以上を占める)が、要するに、うざい女の勝手な悩みじゃん、と思ってしまうと、もうだめ。
 全体に人物描写がひどいというか、ユダヤ人少女サラ以外の人物があまりに平板で、人間として描かれてなくて、薄っぺらなのが困りものです。サラだけは魅力的なのですが、そのサラが戦後、どう生きてどう死んだのか、そこをまったく書こうとしない。戦後のサラの苦悩をきちんと書けない作家なのだと思います。サラの部分でも、サラ以外の人はまるで道具のように使い捨てられています。
 現代のジュリアはとにかく一貫性がない。フランス人と結婚し、夫とうまくいかなくなっていて、それに悩みながら、夫の家族の持つアパートにかつて住んでいたユダヤ人一家の悲劇を知り、それを調べることで、いったい、彼女は何を得ようとしているのか。映画では全然わかりませんでしたが、さすがに原作では一応の説明はしています。つまり、彼女は、夫の祖父母がアパートを手に入れたのはそこに住んでいたユダヤ人家族が強制連行されたからで、しかも夫の祖父母と父親はそのことをずっと重荷に思っていて、ジュリアもその家の一員として、事実を明らかにし、サラに謝罪したい、自分も戦後生まれのフランス人同様、フランスによるユダヤ人迫害を知らなかったことを謝罪したい、そして、夫の家族もサラに負い目を感じて生きてきたことを知ってほしい、そして、サラがすでに亡くなっているなら、それをサラの息子に知ってほしい、ということなのです。
 もっとも、このことが出てくるのはかなりあとになってからで、それまでのサラについて調べているときのジュリアは、無関係なアメリカ人がフランス人を断罪しているみたいな感じでした(実際、それについて批判する人物も出てくる)。最後には、善意のフランス人が強調されるのですが。
 そんなわけで、原作では、アメリカ人がフランス人を断罪している、という印象は最後には薄れますが、最後になっていきなり、このアメリカ人もサラに謝罪したいと言われてもねえ。しかも、彼女はフランス人に対して愛情と憎しみの相反感情を持っていて、それは夫に対する感情と密接につながっているので、まるで夫へのうらみつらみからフランス人を断罪しているように見えるところもあるのよ。
 正直、このジュリア抜きで、サラの話を最初から語りなおしてほしいです。このうざいアメリカ人をなんとかして、と何度も思ったよ。
 しかも、結末が、なんですか、離婚したジュリアと、母親の過去を知ったために妻とうまくいかなくなり離婚したサラの息子が再会して、なんか、ロマンス小説のラストシーンみたいになるのだわ。
 それでも、こういう通俗的でわかりやすい小説の方が、歴史的事実を伝えるには効果がある、ということは認めます、ハイ。

 話変わって、「スター・ウォーズ」6部作のブルーレイ発売をめぐって、ルーカスが行った改変が問題になり、ファンの間で不買運動も?というニュースがありました。
 だいたい、「スター・ウォーズ」は、公開順に見るのと、1から順番に時系列に見るのと、どっちが正しいんでしょうか。リアルタイムで劇場で見てきた者からすると、これは公開順が正しい、と思います。しかし、ルーカスは全部作ってしまってから、その結果として、前の方をいろいろいじくってるみたいなのだよね(そういういじくったのを見たくないので、私は後のバージョンは見てないのだが)。
 そうすると、1から3で若き日のアナキンが描かれると(今、穴金と変換されてしまったけど、ほとんど丸金=マルキンだな・ホッケーネタ)、4から6のダース・ヴェイダーも1から3のアナキンに合わせてもっと人間的にしたくなるのでしょうね。
 でもねえ、それは反則でしょう。だいたい、ルークとレイアが双子になった時点で、一番最初に作った4でダース・ヴェイダーがレイアを捕らえるシーンは親父と娘かよ、それはないよ、と思った私としては、別に親子でもきょうだいでもいいから、親子やきょうだいとはわからなかった時代の部分は残せと言いたい。だんだんわかってくるのがいいんでしょうに。そこに矛盾をはらむのがまたいいんでしょうに。
 というわけで、私は、まず4から6があって、そのあと、ルークに、実はおまえの父親はこういう青年だったのだよ、と誰かが語る、それを1から3にすべし、と思うのであります。
 あと、6の最後のダース・ヴェイダーの顔を差し替えるってのもどうよ。年とったら顔変わるだろうに。(ダース・ヴェイダーではなく、アナキンの幻影の顔を差し替えたのだそうです。でも、6でアナキンを演じた俳優さん、気の毒。94年に亡くなったそうだけど。)