2012年8月28日火曜日

ウォリスとエドワード(ネタバレ大あり)

「英国王のスピーチ」の主人公、ジョージ六世が王になったのは、兄エドワード八世が離婚歴のあるアメリカ人ウォリス・シンプソン夫人と結婚するために退位したため、というのは映画にも描かれている通りです。そして、退位してウィンザー公となったエドワードはウォリスと結婚するものの、2人はイギリスから追放され、故郷に帰ることを許されず、そうしたこともあって夫妻は一時ナチスと交流を持ったという話も調べれば出てきます。
そのためか、「英国王のスピーチ」ではウィンザー公はあまり好意的に描かれていなかったのですが、そのウィンザー公とウォリスの生涯を描くのが映画「ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋」。監督はあのマドンナ。衣装がすばらしく、アカデミー賞の候補にもなりました。
映画は1998年、ニューヨークのサザビーズでウィンザー公夫妻の遺品のオークションが行われる、というところから始まります。かつてサザビーズで学芸員をしていたウォリスは、自分と同じ名前のウィンザー公夫人に興味を持ち、毎日のように彼女の遺品を見に行きます。ウォリスは裕福な精神分析医と結婚して仕事をやめたものの、子供が欲しくない夫は夫婦関係もまともにせず、かわりに外で性欲を始末している男で、夫婦の間には寒風が吹いているという設定。毎日遺品を見に来るウォリスにしだいに惹かれていくのが警備員のロシア人、エフゲニ。やがて夫の暴力にあったウォリスを彼が助け、ウォリスは夫と離婚して新しい人生を歩む、というのがメインのストーリー(ネタバレ)。
そして、このメインのストーリーにはさまるのがウィンザー公夫妻、ウォリスとエドワードの生涯です。
こちらのウォリスは最初の結婚に失敗、次に億万長者と結婚し、イギリスへ行ったときに皇太子だったエドワードと知り合い、恋に落ちます。やがて皇太子は即位してエドワード八世となり、そして、というのはすでにご存知のとおりですが、ウォリスの側から描かれているのが面白いところです。
映画ではこのウォリスが現代のウォリスの前に現れ、彼女に助言したりするというファンタジーな設定もあります。現代のウォリスが過去のウォリスの生涯を知るうちに、新しい人生を見出す、というのがこの映画の特徴。
この過去のウォリスを演じるアンドレア・ライズブローという女優がとにかくすばらしくて、彼女1人がこの映画を支えていると言っても過言ではありません。もともとウォリスは美人ではなく、皇太子と知り合ったときはすでに37歳。皇太子は2つ年上でしたが、弟(のちのジョージ六世)がすでに結婚して子供(のちのエリザベス二世)がいるのに皇太子はいまだ独身で、人妻と不倫しているという子供っぽいところのある男で、そういう彼にとって美人ではないが着こなしがうまく、包容力のあるウォリスが魅力的だったというのが画面からひしひしと伝わってくるのです。
演じるライズブローはまだ30歳くらいで、実年齢より老けたメイクをしているのだろうと思いますが、ウォリスという伝説的な女性の存在感をみごとに体現しています。

実は、この映画は観客にとってあまり親切な映画ではありません。ネタバレ大ありで書こうと思ったのは、その辺を説明した方がいいと思ったからです。
映画を見ていて、字幕で気になったのは、すでに皇太子が即位して国王になっているシーンで、陛下(マジェスティ)という言葉を何度も殿下と訳しているシーンがあったことです。陛下はマジェスティ、殿下はハイネスで、これは英語の基本中の基本、あまりにも初歩的なミスで、いったいどうしてこうなったのか不思議ですが(翻訳者のミスなのか、他の人のミスなのかは不明)、この映画にはエドワードが即位するシーンがないのですね。もともとウォリスとエドワードの物語は断片的に、ときには時間の順序が入れ替わって登場するので、しっかり見てないとわかりにくいところもあるのですが、エドワードが即位したのは1936年1月で、その年の終わりには退位しています。なので、1936年は陛下なわけですが、この時期のシーンでマジェスティが何度も殿下と訳されているので、もう気になってしかたありませんでした。こうした不備は試写中に指摘されてわかったりするので、公開までには訂正されていると思いますが。

そんなわけで、ウォリスとエドワードの部分も日本の観客にはわかりにくい、即位のシーンを入れたりしてわかりやすくしない、といったところがありますが、現代のシーンでも説明せずにわかる人だけわかればいいという感じで描いているところもあります。
たとえば、サザビーズでのオークションは1998年に実際に開かれたのですが、実はこれは前年1997年に予定されていたのが、遺品の所有者であり、ハロッズのオーナーでもあるモハメド・アルファイドの息子ドディが97年にダイアナ元妃とともに交通事故死、そのため、オークションが翌年に延期されたのだそうです。モハメド・アルファイドはウィンザー公夫妻が住んだ屋敷を買い取り、遺品をオークションに出したのですが、映画の中ではウォリスの手紙が発見され、現代のウォリスがそれを読みたいとアルファイドに直訴するシーンがあります。
現代のウォリスが夫と別れ、画廊の仕事につき、エフゲニとの間に子供ができるという結末も、非常にさらっと描かれるので、人によってはわかりにくいかもしれません。夫と別れたということを直接描かず、他のできごとでそれを暗示しているのです。
こういう即位とか結婚とか離婚とかいったシーンをわざと入れず、他のシーンでそれをわからせるという手法は、シドニー・ポラックの「追憶」がそうでした。「追憶」はわかりやすい映画なのですが、主人公の2人が同棲から結婚に移るシーンで、結婚式のシーンはなく、ただ、結婚を示す置物が部屋に飾ってあるのを見せるだけで表現しています。ハリウッド映画のこういう、ぼけっと見ている人にまでわかるようには説明しない手法が私は好きなのですが、最近のハリウッド映画はやたら親切な映画もあるので、「ウォリスとエドワード」の手法が逆に気に入りました。
「追憶」はウィンザー公とウォリスの結婚についてのせりふが出てくる映画でもあります。2人の結婚は1937年なので、「追憶」のこのシーンが1937年であることを示しているのですが、同時に、愛を選ぶか仕事や地位などを選ぶかの選択がこの映画の重要なテーマになっていくことを暗示しています。仕事や地位か、愛か、という選択では、従来は男は仕事や地位、女は愛を選ぶというのが普通と考えられていました。しかし、エドワードは国王の地位と仕事を捨てて愛を選んだ、というのが、当時の人々には衝撃的だったわけです。一方、「追憶」のヒロインはやがて、愛か生き方かという選択を迫られ、愛する夫と別れて自分の生き方を選択します。エドワードとは男女が逆なのですが、一般に考えられていた選択とは違う選択をするという共通点があるのです。

というわけで、いろいろと面白いところのある映画「ウォリスとエドワード」なのですが、内容自体は古いメロドラマと言われてもしかたないところはあります。
「英国王のスピーチ」評で書いたことと重なりますが、この映画も男と女に関する古い価値観の映画です。エドワードは退位したあと、多額の年金をもらって悠々自適に過ごせるのですが、そうした自分に不満です。仕事をしなくても楽に暮らせれば幸せというものではないからです。そうした夫の悩みにウォリスも気づいて悩むというシーンもありますが、ウォリス自身は仕事をする女性、社会活動をする女性ではない。また、現代のウォリスも専業主婦で、子供を作ることしか考えていない。そうした古いタイプの女性の話にすぎないと言われればそれまでなわけです。
むしろ、現代のウォリスの夫が、結婚しても子供を欲しがらない男性であるのが注目といえば注目。最近見たウディ・アレンの「恋のロンドン狂騒曲」にもそういう男が出てきましたが、子供を欲しがらない男性というのは意外に多い。私が若い頃(ン十年前)にもけっこういました。ところが世間は、少子化の原因は女性が子供を欲しがらないからとか、女性が子育てしにくい社会だから、ということしか言わず、子供を欲しがらない男性が意外に多いということは決して言われないのです。
子供を欲しがらない男性が少なくないということは、要するに、人間は人口が増えすぎると子供が欲しくなくなるということではないか、つまり、少子化は自然現象、というのが私の考えです。

最後にトリビア。この映画ではエドワードの父、ジョージ五世をジェームズ・フォックスが演じていますが、エドワードの弟(のちのジョージ六世)を、ジェームズの息子ローレンス・フォックスが演じています。「英国王のスピーチ」では兄弟は全然顔が似てませんでしたが、エドワードを演じたジェームズ・ダーシーはローレンス・フォックスと顔がわりと似ていて、こっちの方が兄弟らしいです。