2013年6月19日水曜日

ディズニーランドの新ギャツビー

このところ、表参道駅はギャツビー一色だった、という記事にぼちぼちアクセスがあるのですが、もしかして、私の新「華麗なるギャツビー」の感想を期待している人がいるのかしらん(←いないって)。
まあ、それはともかく、先週金曜から始まったバズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の「華麗なるギャツビー」、早速見てまいりました(レディスデーです)。
なんというかもう、こりゃ、ディズニーランドですね。湾があるからディズニーシーか? ギャツビーの邸宅はまるでシンデレラ城だし、私が見たのは2Dでしたが、明らかに3Dをねらってるのがわかる映像もまるでディズニーアニメ。おいおい、これ、ワーナーだよね? ディズニーじゃないよね? さすが「ムーラン・ルージュ」の監督というか、今にも出演者が歌って踊りそうで、いよいよディズニーのミュージカルアニメを彷彿とさせます。ていうか、そういうふうに作ってしまった方がよかったんじゃないの? なんか中途半端なのよ。
「ロミオ&ジュリエット」がよかったのは、シェイクスピアの英語をそのまま使って、でも映像はまったく現代で斬新だったからなのだけど、これは時代は原作そのままだし、ところどころ74年版「華麗なるギャツビー」みたいなところもあるし、やっぱりバズ・ラーマン、終わってるな、と思った。
原作と違ってユニークなのは、ニックが今はアルコール依存症その他で療養所に入っていて、その治療もかねてギャツビーの思い出を書く、という構成になっていることです。そのニックを演じるのがトビー・マグワイアで、この人、回想のシーンからすでにどこか病的な感じなのですわ。これまでのニックのイメージは、中西部からやってきたまっさらな青年がバイアスのない視点でギャツビーとその周辺の人々を語る、というものだったのですが、これは大胆な改変。が、成功してるといえるかどうかはまた別で、この改変がただの改変にしかなっていないのです。こういう病的なニックが見たギャツビーの物語、というふうにはなっていない。
まあ、とにかくディズニーランドなので、あるいはディズニーアニメの実写版ギャツビーみたいな感じなので(ディズニーとは何の関係もない映画ですので、誤解なきよう)、そういうふうに見ていればいいのかな、と思って見ていると、初めてギャツビー(ディカプリオ)の顔がアップになるシーンで、背後にドドーンと盛大な花火が……こりゃ、笑うしかない。
ディカプリオは、例の「オールドスポート」の口癖をまじえながら早口でほら話をしているあたりはとてもよいです。レッドフォードにはなかった闇の世界とのつながりのダークな感じ、本当の自分とは違う作った自分を演じている感じがよく出ています。が、デイジーと再会するシーンや、マンハッタンのホテルでトムに向かってデイジーと別れてくれと言うシーンはだめです。どちらもディカプリオは感情に負けてしまうギャツビーを演じているのですが、そういうシーンになると、ディカプリオの子供っぽさが前面に出てしまう。
ディカプリオは「ギルバート・グレイプ」などで少年俳優として出てきたときは、この人は将来どんなにすごい演技派になるだろう、と思ったものでしたが、その後、アイドル化して、演技賞とは無縁なスターになっていってしまったのですが、確かにこの人は演技に幅がない。「シャッターアイランド」と「インセプション」での彼の区別がつかないように、ディカプリオは常にディカプリオで、それがよい方に出ている映画も多いのですが、ギャツビーにはやはり向かないと感じました。
それでもディカプリオは多くの場面ではよいのですが(肝心のシーンがだめだけど)、他のキャストは74年版に完全に負けてます。トムやマートルやデイジーやウィルソンがブルース・ダーンやカレン・ブラックやミア・ファローやスコット・ウィルソンに負けてるのはまあ、しかたないのですが、ジョーダン・ベイカーまでもがあのロイス・チャイルズに負けてるのは救いようがありません。
74年版は、初公開のときに見たときは、役者はいいけれど映画としてはつまらない、と思ったのですが、数年前から大学で英米文学を教えることになり、参考としてDVDを買って見たら、思ったよりよいというか、よいところがかなりある映画だと思うようになりました。特にギャツビーの車がマートルをひき殺してしまうあたりから、トムの家から帰ろうとしたニックが隠れていたギャツビーに会うシーンは74年版の中では最もよくできた、見ごたえのあるシーンで、ここだけ見てるとこれはかなりの名作だと思ってしまうほどです(冗漫なシーンが多いので、全体としては凡庸なのだが)。今回のバズ・ラーマン版を見ると、74年版は演技と演出の基礎的な力のレベルが高いと感じます。
74年版はニックの語りで始まりますが、途中から語りがほとんどなくなります。が、今度の映画化では療養所のニックが治療をかねて手記を書いているので、ニックの語りが非常に多い。しかし、これがどうも邪魔というか、たとえば、トムがウィルソン夫妻の自動車修理店に立ち寄るシーンで夫妻が引っ越すということを聞き、トムが妻デイジーと愛人マートルの両方を失う危機だということを、今回の映画ではニックの語りで念押しするのですが、映画でこれをやってはだめなのですよ。映像と演技でわからせないといけない。74年版はこの原則に沿って作られていたのに、今回はとにかくニックの語りに頼る。いや、それだけでなく、トムがウィルソンにマートルをひいたのはギャツビーだとわからせるのをせりふでこれでもかというくらいわかりやすく話すのですね。まあ、最近のハリウッド映画はとても親切で、ぼけっと見ている人にもわかるような配慮が多いのですが、ここもぼけっと見てる人にわかるようにはっきりせりふで言うわけです。ぼけっと見てる人にもわかるように、といえば、マンハッタンのホテルでギャツビーがトムにデイジーと別れろと迫るシーン、原作でも74年版の映画でも、ギャツビーがなんで富豪になったのか、あまりはっきりとは言わない、でも、何か後ろめたいことをして金を稼いだらしいことがわかる、という描写なのですが、それをものすごくはっきりと具体的にトムはせりふで言います(原作者、ここまで書いてなかったよね)。
というわけで、ある意味、とても親切な映画で、そういう意味でもディズニーランドかもだ(ディズニーとはまったく関係ない映画です、再び念のため)。
それにしても、ニックはどうしてこのあと、療養所に入るような精神的ダメージを受けたのでしょうね? 回想でもすでにどこか病的、と書いたけど、戦争に行って心的傷害を受けたとか? ギャツビーの件だけでここまで病気にならないだろう、と思うのですが。ただ、最初にギャツビーとニックが会うシーンで、なんか、この2人、ゲイっぽい、と、ちらっと思ったのですが、ニックは実はゲイで、ギャツビーに恋してた、というくらい大胆な設定にしたら面白かったのになあ、と思うのです。そういえば、この映画ではニックとジョーダンがつきあう話はほぼなかったですね。もしかして、ニックをゲイにするアイデアがあったけど、OKが出なかったのであろうか?

というわけで、一応見てきましたが、この映画、わりと早く記憶から消えてしまいそうです。
帰ると、キネ旬の最新号が届いていました。巻頭特集がこの映画なので、特集の最初のページを見てびっくり! 「1920年代のニューヨーク、中西部からコニーアイランドの高級住宅地ウェストエッグにやってきたニックは・・・」あー、またやっちゃいましたね、キネ旬。ニックは遊園地に引っ越したのか?(笑)。
(豆知識:舞台となるロングアイランドは、最西部がニューヨーク市で、それ以外はニューヨーク市外となります(州はニューヨーク州)。ロングアイランドというときは、普通は、ニューヨーク市外の部分をさします。また、デイジーとジョーダンはケンタッキー州ルイヴィルの出身とせりふにもありますが、ルイヴィルは「インサイダー」のラッセル・クロウ演じる人物が住んでいたところだよ。ケンタッキー州は現在は南部に分類されますが、歴史的に中西部に分類されていたこともあり、デイジーとジョーダンも中西部出身となります。またトムはシカゴ、ニックはミネソタ、ギャツビーはノースダコタの出身で、これらもすべて中西部です。と、知識をひけらかしてみました。)
特集の中はまだ読んでませんが、ちらちらっと見た感じではなんだかなあな印象。