2013年7月27日土曜日

「風立ちぬ」は見ていないけど(追記あり)

しばらく前からジブリの映画はまったく見なくなっていたのですが、今回の「風立ちぬ」もゼロ戦の設計者の話というので、なんだかピンと来なくて、見る気がなかったのですが(というより、今も見る気なし)、気になる映画評を見つけました。

2つ見たのですが、2番目に見たのから紹介します。ヤフーのレビュー欄です。
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id344584/rid72/p1/s2/c1/
お役立ち度のトップにある評ですが、久々に声をあげて笑ってしまったのが次の言葉。

ストーリーは夢のシーンが多過ぎ&長過ぎ。「またこれかよ!二郎、頼むからもう寝ないでくれ!」と思うほど長時間を割いている割に、二郎の声のせいなのか、その効果はなく、その他のシーンはお粗末でした。一生懸命作った飛行機が人を殺す道具になり、全滅したという悲惨な現実への二郎の思いはどうしたの?「でも一機も戻って来ませんでした。(棒読み)」で終わりかい。「ま、いっか」って感じ?

この前後も非常にわかりやすく、そうか、そういう映画だったのか、と思ったのですが、実はこれの前、つまり、最初に読んだブログの映画評が視点は興味深いけど混乱した内容で、それでもやもやしていたのを、上のレビューがすっきりとさせてくれました。

で、最初に読んだのはこの映画評です。
「「風立ちぬ」を見て驚いたこと」
http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece
個人のブログですが、言いたいことはわかるのですが、どこか恣意的というか、この人の持論へのこじつけのような印象もあり、でも、その一方で、真実を突いていると思える部分もあり、非常にもやもやしていたのですが、それが上のヤフー・レビューの評ですっきりしました。

このブログの記事「「風立ちぬ」を見て驚いたこと」は、一部の天才が多くの人の苦しみの上ですばらしいものを作っている、という主張ですが、この論の最大の誤りは、「天才の作り上げるすばらしいものはゼロ戦のような殺人兵器ばかりではない、むしろ、宮崎アニメをはじめとする人を喜ばせるものの方が多く、それを支える庶民は日々苦しんでいても、一部の天才の作るすばらしいもので癒されている」という事実をまったく無視していることです。
この論を読むと、宮崎駿は主人公二郎をかなり否定的に描いているようで、ということは、多くの庶民の苦しみの上ですばらしいことをしているはずの天才の成し遂げたことが殺人兵器で、しかも戦争的には失敗だったという皮肉じゃないかと思えるのですが、論者は宮崎が二郎を否定的に描く場面をいくつもあげながら、宮崎が二郎を否定しているという観点にはついに立つことができないのです。このあたりの混同というか、支離滅裂さが、この論の最大の欠陥です。

一方、ヤフー・レビューの評者はもっと率直に映画のおかしなところを見ています。二郎が結核の妻の前で平気でタバコを吸うなどの二郎の思いやりのなさを指摘しているところはブログの論者の二郎評と重なるのですが、ヤフー・レビューの論者には迷いはありません。ブログの論者が立ち位置がわからずによろよろしているところを、レビュー評者は単刀直入にスパッと切るのです。

「風立ちぬ」という映画を見に行くかどうかはわかりませんが、この2つのレビューはいろいろな意味で(映画についてよりは、文章の書き方や書き手の立ち位置について)参考になりました。

追記
次のブログの映画評が大変参考になりました。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-428.html
作品に対して好意的な批評ですが、「風たちぬ」の主人公に対して批判的と思えるような描写が映画の中にある理由がこれでよくわかります。
この文章は宮崎駿の背景を詳しく説明しながら作品を論じていて、宮崎駿に寄り添う形になっているのですが、検索で出てきたさまざまな映画評の中には自分に引き付けて作品を論じているものが意外と目に付いたです。追記の前のところで2番目にあげた「「風立ちぬ」を見て驚いたこと」もそうですが、一方、ツイッターでは戦前は真の芸術が優遇されていてよかった式の戦前美化論をやってる人(有名人)がいたり、なんかもう、宮崎駿の極私的作品なのに見る人の極私的作品になってる論も多そう。
ネットの文章をいろいろ読んでもやっぱり見る気はあまり起きないのですけどね。