2016年12月21日水曜日

ヴァンサン・カッセルの2本の新作

試写で見たヴァンサン・カッセル主演の2本の新作。
1つはカナダのフランス語圏の若手グザヴィエ・ドランの「たかが世界の終り」。
もう1つはフランスの女性監督マイウェンの「モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由」。
前者はカンヌ映画祭でグランプリ。後者は同じくカンヌで主演女優賞(エマニュエル・ベルコ)。
もはやジャン・ピエール・カッセルの息子とか、モニカ・ベルッチの彼氏(当時)とかいった呼び方はされない、国際的な名優カッセルですが、この2本で見せたまったく正反対の男の演技に驚かされます(演技力や役柄の広さはわかっていたけれど)。

舞台劇の映画化である「たかが世界の終り」でカッセルが演じるのは、家族と疎遠にしていた劇作家(ギャスパー・ウリエル)の兄。死期が迫った劇作家がそれを家族に知らせるために久々に実家に帰る。実家には母(ナタリー・バイ)、兄(カッセル)、兄嫁(マリオン・コティヤール)、妹(レア・セドゥ)がいるが、母と兄と妹は口論が絶えない。兄嫁はおろおろするばかり。理由は兄が家族の会話にいちいちけちをつけるからで、要するに、彼はコミュ障なのである。
原作の劇ではこの兄は弟になっているというのだが、兄の方がリアルな感じがある。弟だと、ちょっと問題のある弟という感じだが、兄だと、父がいない家の家長的存在だが、人間としての大きさがなく、ただ家長の威厳を保ちたくていちいち家族に文句を言う、そういう感じがよく出ている。こういう中高年男性って、時々見るから。
この映画は高い評価を得ているけれど、私はドランが少し背伸びをしているような気がした。若いドランには、この題材は完全に自分のものとして扱えないのではないかと思った。実際、兄の造型はカッセルの演技によるものが大きく、ドランの描き方はいくぶん不十分にも感じる。
映画の前半の家族の口論と、クライマックスからラストの家族の口論は明らかに雰囲気が違っていて、劇作家が自分の死を告げたあとだとわかるのだが、このときの兄の態度が前半とは完全に異なっている。
5人のスターを使って家族のドラマを作り上げたドランの手腕はわかるが、カッセルの演技がなければこれほどの効果はなかったかもしれない。

「モン・ロワ」の方は、主演のカッセルとベルコ、そして監督のマイウェンがほぼ同い年で、監督自身の世代の物語として作られている。カッセルとコティヤール、そして「美女と野獣」のカッセルとセドゥは年が離れていたが、この映画の主演2人は1歳違い。同世代の大人の男女の愛を描いている。ドランがやや背伸びしているように見えたのに対し、こちらはまさに等身大。
この映画のカッセルは女にもてる男の典型だ。女性だけでなく周囲を笑わせ喜ばせる。子供に対しては父親としての愛を目一杯注ぐ。元カノはモデルだったが、新たに愛し、結婚した女性(ベルコ)は弁護士というキャリアウーマンだが容姿は平凡。しかし、2人は切っても切れない関係になる。
カッセルは元カノと切れておらず、それがベルコを激怒させるのだが、元カノが精神不安定で、別れたあとも彼を頼っているので心配、と言われると、結局許してしまう。その後、夫がクスリをやっていたり、見知らぬ女性と浮気していたりで、離婚するのだが、離婚したとたん、「離婚したんだからまた結婚できる」と言うカッセル。その後も2人は会い続け、子供と3人で旅行にまで出かけ、と、離婚しても切れることができないカップル。そんな10年間を、スキー事故で大けがをしたベルコがリハビリをしながら回想するという形式になっている。
この映画のカッセルはとにかく明るい。明るくて、立ち直りが早くて、子煩悩で、料理もできる。ベルコが、出版社社長が妻を殺害した事件で被告の弁護を担当できることになった、有名な事件で名前が売れる、と喜ぶと、カッセルは、妻を殺した男の弁護か、最高だね、と皮肉る。彼は女性や被害者の味方なのだ。いろいろ欠点があっても、こういう男は女にもてる。
ラスト、リハビリを終えたベルコがカッセルと再会するシーンのカッセルが最高に魅力的で、それをベルコがうっとり眺めてしまう。女性監督による女性のための映画だ。
マイウェンはリュック・ベッソンの元妻で、ベッソンの映画にも出演した女優でもあるとのこと。離婚の理由はミラ・ジョヴォヴィッチとしか考えられないのだが(?)、結婚したベッソンとミラがあっという間に離婚したのが当時は驚きだった。
ヒロイン役のベルコも女性監督として活躍している。