2016年12月5日月曜日

ベルナルド・ベルトルッチ

ベルトルッチはもともと好きな監督じゃないので、どうでもいいのですが、「ラストタンゴ・イン・パリ」がマリア・シュナイダーに対するレイプに等しいものだったというニュース。
もともと2013年に行われたベルトルッチのインタビューで話したことが今になって急にニュースになっていて、しかも、シュナイダーに対する本番レイプが行われたかのような書き方になっていて、いくらなんでも本番はないだろう、と思っていましたが、その後の続報で、2007年にマリアが本番ではなかったが、レイプされたような気持になったと語っていることがわかりました(マリアはすでに故人)。
どういうことかというと、クライマックスのバターを使ったアナルセックスシーンが脚本になかったのに、直前になってマリアに知らされ、まだ19歳だった彼女は弁護士やエージェントに連絡することも思いつかず、撮影にのぞみ、ベルトルッチと共演者マーロン・ブランドにレイプされたような気持になった、ということらしい。
映画は若い頃に見ましたが、流れとして、クライマックスにマリアの演じる女性がレイプされるのはおそらく最初から脚本にあったと思います(そうでないとあのラストにはならないだろう)。
ただ、それは通常のセックスのレイプシーンの演技だったのが、バターセックスに変えられていた、ということではないのか。
その想定外のことにショックを受けた彼女は、レイプされたように思い、その後も精神を病んでしまったらしい。
父親が有名とはいえ、まだ無名の19歳の女優に、権力を持つ監督と俳優がいやがることをごり押ししたわけで、これ自体、許されないことですが、今回、世間が反感を感じているのは、ベルトルッチのこのことについての反応です。
ベルトルッチはヒロインの恐怖や屈辱を女優として演じるのではなく、少女として感じてほしかったと言っています。芸術のためにはそれは必要とまで言っている。
しかも、マリア・シュナイダーもマーロン・ブランドも死んでいて、死人に口なしの状態で。
もしもベルトルッチが、演技としてマリアにあのシーンを演じてほしいと思えば、ドッキリカメラみたいなやり方ではなく、きちんと説明し、納得してもらった上で撮影したでしょう。
まあ、確かにドッキリカメラみたいなやり方を好む監督もいて、普通の映画でさえこれだから、AVでいろいろな問題も起きてるわけで。
それはともかく。
私はベルトルッチって、芸術のためには、とか言えるほどの監督なのか、と思ってしまうのです。
確かに「ラストエンペラー」はアカデミー賞作品賞とってるし、ベルトルッチはカンヌのパルムドールもとってるし、「暗殺のオペラ」とか「1900年」とかは私も好きですが、「ラストエンペラー」以後の映画はぱっとしないし、「暗殺の森」も、私はそれほど感心しなかったし、「ラストタンゴ」に至っては、若い頃に見て当惑しか感じませんでした(なんでこれがあんなに受けてんの? やっぱりマリアの気持ちを踏みにじったあのシーンのおかげ? 当時も今も「ラストタンゴ」といえばこのシーンなので、「芸術」としては成功したシーンなわけ?)
まあ、好きな人もけっこういるみたいですが、イタリア映画の他の監督に比べて、それほどすごくない、作家としてもそれほどすごくない、と感じています。
というわけで、今回のニュースも、こいつを許すならポランスキーをそろそろ許してやれ(被害者もすでに許してるし)と思っちゃうんですよ。

そういえば、娘が過激なセックスシーンのある映画に主演するとわかった富司純子(藤純子)が、「映画の現場なんていうのは、最初はこの程度と思っても、どんどん過激なことを要求される。私も「緋牡丹お竜」に出たときはそうだった」というようなことを言って反対したという話がありましたが、確かに映画の現場は想定外の過激なことを女優にどんどん要求するのがデフォルトなところがあって、それがAV強要の下地になっているということはあるのかもしれません。

追記 スウェーデン映画の「ミレニアム」第1作で、リスベットがアナルレイプされる過激なシーンがありますが、リスベット役の女優が、相手役の俳優は尊敬する舞台の名優なので、共演者と監督を信頼していたから撮影は問題なかった、と語っていて、こういうシーンには共演者と監督に対する信頼が重要であることを認識させられます。