2020年2月3日月曜日

宝塚雪組宝塚大劇場千秋楽「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」ライブビューイング

行ってきましたよ、ヅカLV初体験。

場所はTOHO流山おおたかの森(帰りに撮影)。

開映20分前に着いたら、プログラムは売り切れ。ひえーっ。
3月の東京宝塚劇場千秋楽のチラシもなくなっていた(夕食後に再訪して補充されていたのをゲット)。
プログラムなどはショップや通販でも買えるのでしょうが、買いたかったのに残念。
今回は一般販売の方が都心にいい席が残っていて、がっかり、でしたが、後方だと端っこでも見やすいし、日本橋とか上野とか六本木のTOHOだと帰りのエスカレーターが大渋滞だなあ、と思ったら、ワンフロアですぐにレストラン街に出れる流山が楽でよかったかも、と。
宝塚は遥か昔に「ベルサイユのばら」のテレビ中継を見ただけでしたが、歌と踊りのレベルの高さはさすが。カメラワークも手慣れた感じで、生中継の危うさとかまるでなく、映像も美しい。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」はミュージカルやレビュウの部分はよくできていて、見応えがありました。
ただ、ドラマ部分はというと、いろいろ不満が多かったです。

以下、ネタバレ大有りですので、注意してください。



もとよりレオーネ監督の映画のようなものとは違うものになることは予想していました。
残酷なシーンとか、レイプとかは当然カット。時系列もほとんど直線的で、映画のように過去と現在を行ったり来たりというのはほぼなし。宝塚は最後にレビュウがあるので、芝居は2時間程度に収めなければならないとのことで、手際よく話が進むような工夫や省略がされています。
4時間の映画を2時間にしたにしては、わりとよくまとまっていると思います。
ただ、映画の人物関係がだいぶ変わっていて、ヌードルスとマックスの男同士の結びつき、マックスとデボラがヌードルスをはさんで対立している、あるいは、ヌードルスとキャロルがマックスをはさんで対立している、といった、ある意味、大人の男女の複雑な関係はほとんど削られています。
特に不満なのがデボラの性格付けが映画と大きく違っているところです。
舞台では、少女時代のデボラが「皇后になりたい」と歌い、それに対し、ヌードルスが「おれは皇帝になる」と歌うのですが、映画ではデボラは結婚による女の幸せよりも女優としての成功を求めるタイプであり、また、ヌードルスはむしろ、野心や成功よりも平凡な幸せを求めるタイプの男です。
映画では野心を持たないヌードルスと、野心的なマックス、デボラが対比されていて、マックスもデボラも野心を持たないヌードルスを切り捨てるのですが、舞台ではヌードルスも野心があるということになっている。
映画では、デボラがヌードルスの求愛を断るのは、ハリウッドへ行って女優として成功したいからで、平凡な暮らしを望むヌードルスとは人生観が違うからです。しかし、舞台では、デボラはハリウッドのプロデューサーとねんごろになり、ヌードルスと別れるようになっています。
そして、映画のデボラがブロードウェイでシェイクスピア劇の主役を演じるような名女優になっているのに対し、舞台のデボラはプロデューサーに捨てられ、それからしばらくして女優を引退し、慈善活動に専念、その後、ベイリー長官となったマックスと出会い、パートナーの関係になる、というふうに変わっています。
そして、デボラとマックスがパートナーになった理由は、マックスが少年時代からデボラをひそかに愛していたから、ということになっているのです(前半、ブロードウェイ・デビューが決まったデボラに、ヌードルスはバラの花束を渡し、一方、プレゼントの小箱を持ったマックスはそれを渡すことができずに終わるシーンがある)。
映画ではデボラとマックスはヌードルスをめぐる敵同士であり、お互い嫌い合っています。また、映画ではマックスが愛した女はキャロルだけであるように見えます。私はデボラとマックスの間には本当の意味での男女の愛はない、だから2人の結びつきはある種の政略結婚のようなものであり、また、2人はヌードルスの思い出でつながっている、と思っています。ヌードルスの思い出を間にはさんで愛し合っていると言ってもいい。あるいは、舞台には登場しないマックスの息子、ヌードルスと同じ名前を持つデイヴィッドの母になろうとデボラは思ったのかもしれません(夫の連れ子の母になろうとした「ウェスタン」のカルディナーレのように)。
映画ではひきつけあうヌードルスとデボラ、ヌードルスとマックス、マックスとキャロル、反発するデボラとマックス、ヌードルスとキャロル、といった人間関係が情感豊かに描かれているのに対し、舞台ではどうもこのような情愛が感じられない。宝塚だからこそ、そうした情愛を豊かに描くべきなのでは、と思うのですが(かつての「ベルサイユのばら」のように)。
そしてなにより不満なのが、デボラのキャラクター。皇后になりたいと歌う彼女は、結局、成功者の妻になりたい女性として描かれているのです。プロデューサーとねんごろになるのもそうだし、マックスことベイリー長官と一緒になったのもそれではないかと思えてしまう。ヌードルスはギャングだからイヤと言うけれど、それは映画のデボラのような真人間になってほしいというのではなく、まともな成功者ではないからと思えてしまう。
結婚こそが女の幸せという価値観を持たず、名女優になるという野心を追求し、みごとにそれを達成した映画のデボラの方が現代的な女性で、舞台のデボラは「ベルサイユのばら」以前の少女マンガのようです。「ベルばら」をはじめとする新しい少女マンガが次々と生み出される前の、女の子の幸せは結婚だけみたいな少女マンガの時代をはからずも思い出してしまいました。ヅカLV行ってみたら年配の女性が多かったけど、それでもこれは古すぎるような気が。
もう一人のヒロイン、キャロルも映画とはだいぶ変わっていて、映画では保険屋の妻で、宝石商の事務所に勤めている欲求不満の女性だったのが、舞台ではもぐり酒場の歌姫になっていて、宝石商の事務員の女性は別人になっています(舞台では保険屋の妻ではなく宝石商の妻になっている)。ただ、欲求不満でヌードルスを誘惑しようとするのは舞台でも描かれていて、もちろん舞台ではヌードルスは関係を持ったりしないので、このシーン、宝塚で必要かなあ、と疑問に。
また、映画ではキャロルとデボラは顔を合わせていないけれど、舞台では知り合いになっているので、のちにヌードルスがキャロルを訪ねていくと彼女は記憶喪失になっているという設定に変わっています。
キャロルに関しては、もぐり酒場の歌姫で、彼女のまわりで踊る女性たちはかつてデボラのようにバレエを習っていたけれど、今はみんな娼婦になっているという設定で、これはよい設定だと思います(男はギャングに、女は娼婦になる世界を表している)。
まあ、とにかく、デボラの設定が大いに不満なのと、登場人物たちの人間関係のドラマが不十分なところが不満。人間ドラマに関しては2時間に縮めたせいもあるのでしょうが。
このほか、映画ではわかる人にはわかるような感じになっているところを、舞台ではきちんとせりふで説明していて、これは観客に合わせた配慮と思います。
あともう一つ。映画ではマックスは最初から銀行強盗は見せかけで、別人になって出世することを目論んでいたように描かれるのに、舞台ではマックスは本気で強盗しようとして失敗、組合活動家のジミーのおかげで別人になって逃げる、というようになっていて、この変更もどうかなと思います(かなり大きな変更)。映画ではマックスもジミーももっと大きな組織の歯車になっている感じで、「アイリッシュマン」で描かれたジミー・ホッファ(ジミーのモデル)たちのように、マフィアに取り込まれていったと思われるのに、舞台は最後までマフィアとは違うようになってるのもどうなのか。
というわけで、考えれば考えるほど不満が出てくるのだけど、歌と踊りはほんとにすばらしく、男役トップの望海風斗の演技、そして艶のあるのびやかな歌声には魅了されました。他の出演者ではキャロル役の人(本来は男役らしい)がよかった。老年のマックスがだめ、という声があるけど、あれは映画のジェームズ・ウッズも老年期はだめだったんで。

お芝居とレビュウが終わったあとのカーテンコール。何度も幕が下りて終わったかと思うとまた上り、というのは、羽振りがよかったバブルの頃にオペラや演劇を見に行ったときに経験していたので、完全に終わって明かりがつくまで座っていましたが、けっこう立ち上がって帰ろうとする人が多いですね。節分ということで、豆まきみたいなこともしていましたが、ミラノスカラ座日本公演の最終日を見たときのことを思い出しました。指揮者や出演者がはっぴを着て升酒を飲み交わしていたのです。

東京公演のライブビューイングの先行抽選申し込みがもう始まっていますが、どうしてももう1回見たいというほどではないけど、東京公演でどう変えてくるかを見てみたい気もします。上映館が増えたので、ここで見てみたい、と思う劇場を申し込んでみようかな。日曜日なので競争率は高いと思うけど。
あと、埼玉県はTOHO富士見でしかやらないのですね。だから埼玉県に近い流山が完売なのか。