2021年3月23日火曜日

「ミナリ」を見て考えたこと(ネタバレ大有り)

韓国系アメリカ人、リー・アイザック・チョン監督が韓国系移民の家族を描く「ミナリ」を見て、さまざまな疑問が浮かび、それについて考えてみた。

カリフォルニア州からアーカンソー州の田舎にやってきた一家はキリスト教徒である。韓国にはキリスト教徒が多いと聞いていたが、彼らの家には羊の群れを導くキリストの絵が飾ってある。農業をするための土地を、父親は「エデンの園」と呼ぶ。

一家はカリフォルニアなどの西部の都会に住んでいたが、何かいやなことがあってアーカンソーの田舎にやってきたようである。そのいやなことが何かははっきりしないが、韓国系が襲われたロス暴動のときのようなことだろうか、と思う。

農業で成功しようと思う父親と、田舎での生活に不安と不満を抱く母親は夫婦げんかが絶えない。幼い子供たち(姉と弟)は「けんかをやめて」と書いた紙飛行機を飛ばす。

やがて、母方の祖母が韓国からやってくる。子供たち、特に弟は祖母を嫌うが、祖母は水辺にセリ(ミナリ)を植えたりして、両親とは違う影響を子供たちに与える。

一方、友達ができないなど、コミュニティーでの社交がないことを不満に思う母親は、職場の同僚である韓国人に「韓国教会を作りたい」と言う。すると、同僚は「ここに住む韓国人は韓国教会がいやだから田舎に来た」と返す。

韓国教会は日本にもあちこちにあって、韓国人がキリスト教徒が多いことを思えば不思議ではないが、母親がコミュニティーを求めて韓国教会を作りたいと言うと、同僚が、ここの韓国人は教会がいやだから田舎に来た、というのが興味深かった。普通なら、田舎にある特定のコミュニティーがいやで都会に行くのに、ここでは都会の韓国系移民のコミュニティーになじめない人たちが田舎に来ているのだ。

結局、一家は白人の教会へ行くことにし、そこでは差別も偏見もなく受け入れられ、子供には友達もできる。

教会に非白人がいないとか、差別や偏見が描かれない、というのも少し疑問に思ったが、子供たちが学校へ行っていないのも気になった。

一家はポールという白人と仲がいい。ポール(キリストの弟子のパウルと同じ名前)は神様の話をよくする熱心なキリスト教徒だが、日曜には教会に行かずに十字架を背負って歩いているという変り者だ。

やがて祖母が脳卒中で倒れ、ここから新たな展開になっていくのだが、アメリカの田舎で農業をしようとする移民の一家の日常を淡々とリアルに描く一方で、英文学的というか、アメリカ文学的というか、キリスト教的というか、そういった英米文学でおなじみのシンボルがあちこちに散りばめられているのが興味深い。

欧米では4大元素という考え方があって、それは風、水、火、土の4つの要素のことなのだけれど、この映画では引っ越してきたばかりの一家を襲う竜巻が風、農業をするための土地が土、そして農業に欠かせない水、さらにはクライマックスの火、と、4大元素がそろっている。

特に水は重要なモチーフで、父親は木の枝で水源を見つけるという人を断り、自分で考えて井戸を掘るが、それは失敗してしまう。水道から水が出ない、水辺から水を汲んでくる、そして、姉弟が飲んでいるおいしい水、といった具合に、映画全体を水のテーマが貫いている。クライマックスで火が大切なものを焼いてしまったあとのラストでは、セリを植えた水辺が一家の救済のシンボルとして描かれる。火の試練と水による救済だ。

父親が自分の土地をエデンの園だと言ったり、十字架をかついで歩く男がいたり、セリを植えた水辺に蛇がいたりと、聖書を連想させるモチーフがある。移民してきた父親と母親はアダムとイヴであり、そこから子孫が繁栄していくという創世記のイメージがある。

その一方で、韓国教会の話や、一家が参加する地元の教会の描写はリアルな日常だ。

一家の幼い弟デイヴィッド(聖書のダヴィデにあたる名前)と同じく、アメリカ生まれのチョン監督にとって、欧米の聖書的なモチーフや英米文学のモチーフはおそらく自身の血肉となっていて、決してとってつけたものではないと思う。ただ、それと韓国系移民のリアルな日常描写との融合がどの程度うまくいっているのか、少し疑問ではある。

両親のけんかとか、祖母とのぎくしゃくした関係といった、日本人にもわりとリアルな家族関係と、欧米的なモチーフがちょっとしっくりこない、と思いつつ、いや、これはアメリカ映画なんだからこれでいいのだ、という気もする。確かに古きよきアメリカの田舎と家族という原風景を、1980年代頃のアメリカによみがえらせたような感じはする。

「木の枝で水源を探すなんてばかげている、知恵を使うべきだ」と主張する父親(名前のジェイコブは聖書のヤコブ)は、結局、最後は木の枝で水源を探してもらう。アメリカ映画では長らく、黒人やアジア人といった非白人が、白人にとっての妖精や魔術師のように描かれてきたが、ここでは白人のポールがアジア人の一家にとっての妖精か魔術師として描かれている。マジカル・ニグロとしてポリコレで批判される非白人の妖精や魔法使いが、ここでは逆に白人を妖精や魔法使いにしている。この逆転を面白いと思うか、これもポリコレでまずいと思うか、その辺もどうなのだろう。

そんなわけで、いろいろ疑問を抱きながら見てしまったのだけれど、こうした疑問について考えるのもまた面白い映画だった。