2022年8月15日月曜日

「わたしは最悪。」(ネタバレ大有り)

 しばらくぶりの映画館で「わたしは最悪。」を見る。



成績優秀で医学部に入ったものの、人間の肉体より魂に興味があると感じて心理学に転向、しかし詰め込み教育に嫌気がさして写真家をめざすもものにならず、次は作家をめざして書店でバイトしている30歳のユリアが主人公。

夕暮れのノルウェー、オスロの街を見下ろす場所で肌もあらわな黒いドレスを着たユリアで幕を開け、この映画は序章と12章と終章で語られるというナレーションがあって映画が始まる。

序章でユリアの過去が短く紹介され、そこで彼女の男性遍歴が描かれるが、第1章以降では44歳の漫画家の男アクセルとステディな関係になる。アクセルは古い男女観の持ち主で、実家に彼女を連れていって長期滞在という、盆や正月に夫の実家に行くのが面倒だなあと思う日本の妻そのものみたいなシーンが続く。もちろんユリアはおとなしくはしていないので、トラブルも起こる。

アクセルは仕事が終わって精神的に余裕ができると必ず子どもを作ろうと言い出す。でもユリアは子どもを作って家庭を築くとかいうことにイマイチ乗れない。

そんなふうにアクセルに対して必ずしも満足してないユリアの前に若いアイヴィンという男が現れ、アクセルがいるのにアイヴィンと恋に落ちてしまう。

ていう話なんですが、これ、どこが最悪なのか最後までわからなかった。

邦題は「わたしは最悪。」と一人称なのだけど、英語題名は「The Worst Person in the World」=「世界最悪の人物」で、明らかに三人称。

この映画、どう評価していいのかわからなくて、タイトルでググったけれど、まともな映画評が出てこない。映画サイトに出ていたのは監督の紹介だけだった。3ページ目まで見て、唯一映画評らしいのがあったが(プロの人の評)、これがちょっと首傾げる内容。ヨアキム・トリアー監督の映画はすべて見ていて、監督については勉強になったが、この映画の評としてはどうなのよ、という感じ。

この評者は主観と客観という点から論じていて、第三者のナレーションを入れたり章分けしたのは客観のためだというのだけれど、この映画はそれがなくても十分客観、というか、第三者的な描写なのである。

主観と客観というのはこの場合、文学でいうエンゲイジメントとディタッチメントと言った方が正確なのだが、物語はエンゲイジメント、つまり対象にべったりだと悲劇になり、ディタッチメント、つまり対象に距離を置くと喜劇になる、というのは文学の世界では古典的な論理。

「わたしは最悪。」はアメリカではコメディとして受けていて、確かに分類するならこれはコメディ。コメディはディタッチメントで成立するものだから、映画はユリアをある程度突き放して描いている。ユリアの主観もある意味、距離を置いて見られている=客観化されている。

これはコメディに限らず、ディタッチメントの手法であって、くだんの評者がほめているような主観と客観がどうのこうのというのとは違う。

そんなわけで、私はまず、第三者のナレーションがうざかった。もしも英語だったらうざくなかったかもしれない、とは思ったが、余計な気がした。ただ、トリアー監督はこの映画を小説のようにしたいので章分けしたと言っているから、ナレーションは19世紀小説に多かった全能の語り手として入れたのだろう。この全能の語り手はディタッチメントの手法の1つでもある。(実はこのあたりの文学理論は学部時代の卒論で書いたことなので、いわば私の十八番なのだ。)

この章分けも過去にやっている監督はいるわけで、新しいとは思えなかった。

で、何が最悪かということなのだが、邦題の「わたしは最悪。」だと、ユリアが自分を最悪だと思っていることになる。これはある程度当たっていて、成績優秀、容姿端麗、才能もあり、そこそこ裕福な家に生まれているみたいなのに、何をやっても長続きせず、仕事も恋も中途半端。おまけにやることなすことすべて裏目、みたいなのが「最悪」ということなのだろう。

一方、英語題名の「世界最悪の人物」は「わたしは最悪。」に比べると客観化された言葉で、世間から見ても最悪という意味になる。実際、ユリアは倫理観の欠如した女性として設定され、盗みを働くシーンもあったが、それはカットされたという。が、それ以外だと恋人がいるのにほかの男に走るとか、恋人の実家でおとなしくしてないとか、新しい恋人と露悪趣味なことしてるとか、はっきり言って、他人が口出しすることじゃない。どこが最悪だよ、って感じ。

そんなわけで、ユリアが「わたしは最悪」と思うのは理解できるのだが、実際は全然最悪でもなんでもないわけで。

ユリアが電灯のスイッチを入れると世界が静止し、動かない街の中をユリアが走って新しい恋人アイヴィンのところへ行くシーン(アイヴィンも静止していない)は見ごたえがあるけれど、ここもどこか既視感がある。

監督はミュージカルのようにしたかったと語っていて、アステア=ロジャースの「有頂天時代」の「今宵の君は」(The Way You Look Tonight)が印象的に流れるシーンがあり、それまでユリアの衣装や着こなしにやたら目が行っていたので、この選曲は非常に納得がいった。

子どもを望まないユリアがアイヴィンの子を妊娠してしまったとき、アクセルに相談すると、相手がいい人だったら産んで育てろと言われ、アイヴィンに妊娠を告げると、アイヴィンは子どもを望んでいない様子。結局、流産し、終章ではユリアはカメラマンになっていて、ふと見ると、アイヴィンが女性と赤ん坊と一緒にいるのが目に入る。このとき、ユリアが何を思ったのかは描かれない。

流産しなければ自分がアイヴィンとああなれた?

結局は仕事か結婚の選択?

ああ、それを言っちゃったらもうこれは古い、古すぎる映画。

でもね、ほかにどう思えばいいの? 今はカメラマンとしてしっかりやってるし、子どもとか家庭とかこれからもチャンスはあるよね、と思う?

なんだろね、新し気なことをいろいろ入れてるけど、私には古いタイプの映画としか思えなかったのだが。つか、19世紀的小説の手法を入れてる時点で、新しくないんじゃない?

ユリアを演じるレナーテ・レインスヴェがすばらしい。やせぎすでないスタイルのよさというものを感じさせる肉体と衣装、生き生きとした表情と演技。共演の2人、アンデルシュ・ダニエルセン・リーとハーバート・ノードラムもいい。いろいろケチつけたけど、これだけいい役者がそろっていて、内容もある意味、古典的なところがしっかりしているので、見ごたえはある。