2023年5月20日土曜日

私の映画批評の姿勢

 キネマ旬報が月刊になるというニュースがありました。

だいぶ前から仕事はなくなっているので、私には影響はありませんが。

で、12年前にキネ旬の評論家が順番に書いていた私の映画批評の姿勢という連載。私も一応、書かせていただいたのですが、その原稿を読み直してみたら、うーん、意外といいんじゃね?と思ったので、再録してみます。


私の映画批評の姿勢

伝えたいことがあるから書く

 映画評論家の方々がどのような姿勢で映画評を書かれているかについては、大変興味があるので、この連載は毎号、楽しみにしている。では、振り返って、自分はどんな姿勢で書いているかと考えてみると、特別な姿勢など何もないことに気づく。

 私が映画評らしきものを書き始めたのは高校時代だった。当時は高校生でも大人顔負けの立派な文章を書く人がいたが、私は映画ファンの感想の延長で書いていた。「シネ・ストーリー」という、近代映画社が短期間、発行していた映画雑誌に投稿して掲載されたのが、初めて商業誌に載った映画評である(本誌の読者の映画評欄は敷居が高く、私には無理だった)。

 大学時代には映画仲間と同人誌をやっていた。その頃には多少は生意気になっていた私は、既存の映画評に不満を持つことが多くなった。

 この映画にはこういう重要な要素があるのに、どうして誰も書かないのか。この映画評はピントがはずれているのではないか。ナイーヴな映画ファンを脱し始めた人なら誰でも経験する時期に入っていたのだ。

 しかし、相変わらず、本誌は私にとっては敷居の高い雑誌だった。当時の本誌は日本映画に非常に力を入れていて、私と同世代の日本映画の論客が読者の映画評欄の常連だった(本誌で活躍されている評論家の方々にはここの出身者が少なくない)。あの頃の私は、とにかく、日本映画が苦手だった。ひとことで言うと、日本映画の見方がさっぱりわからなかったのだ。それは味噌汁や納豆が苦手なのと同じだった。年とともに味噌汁や納豆が大好きになり、日本映画も大好きになったのだけれど、いまだにあの当時の日本映画コンプレックスは残っている。

 日本にいて、日本語で映画評を書く以上、その対象はまず日本映画でなければならない、という考えが、漠然と頭にあった。批評というものは作り手の役に立たなければならない。外国映画についていくらいいことを書いても、日本語では外国映画の作り手には届かない。映画をよくするのが批評の役目なら、日本語の批評の対象は日本映画であるべきだ、と私は思っていた。そして、同時代の日本映画について積極的に発言する論客を心から尊敬していたし、外国映画、特に欧米映画中心の私にはそれは無理だとあきらめていた。

 その一方で、外国映画については、私が言わねば、と思うことが少なくなかった。特に欧米の文学や文化が背景となっている外国映画の評論については、読んで物足りなく思うことがよくあった。W・M・サッカレーの原作をスタンリー・キューブリックがどう料理しているのかを理解せずに、どうして「バリー・リンドン」を論じられるのか。いや、自分自身がまず勉強しなければ。そう思って大学院に進み、英米文学を学び、その結果、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」について、文学的背景から映画までを論じた文章がきっかけとなり、本誌から映画評の依頼を受けた。

 思い返してみると、若い頃の私は、欧米映画のおもに文学的背景を読者に正しく伝えたい、という気持ちが強かったのだと思う。この映画にはこういう重要な要素があるのに、誰も書かない、だから私が書く、というスタンスだった。そのため、読者にはピンと来ない映画評も多く書いてしまったかもしれない。それでも、これは私が伝えねば、という強い思いを受け止めてくれた編集者や読者がいたので、長い間、映画評を書き続けてこられたのだと感謝している。

 最近は日本映画にも欧米文化の影響がはっきりと見られるようになり、日本映画についてそういう指摘をする文章も書けるようになった。読者に伝えたいことがあるから書く、これが私の姿勢なのだと改めて思う。


 映画評論は誰でも書ける。それは今も昔も変わらない。ただ、昔は、商業誌とそれ以外の間には大きな壁があった。その一方で、本誌は読者の映画評のほかに、キネ旬ニューウェーブという、読者から長編の評論を募集する欄を儲け、読者が評論家と対等に勝負する場所を作っていた。

 また、商業誌には雑誌の方針や読者の好みなど、さまざまな要素があって、プロの書き手は必ずしも自分の書きたいことが書けるわけではない。私自身、本誌に書きながら、コピーの個人誌を出していた時期がある。

 現在、映画評論は玉石混交のブログから大学の映画研究までに広がっている。ブログには、書き手が裸の王様になってしまうという難点があるし、大学の映画研究は、外国文学研究の衰退によって対象が映画に変わったような部分が垣間見えて、複雑な思いをすることがある。

 最後に、映画評論を読む読者とは誰かという問題がある。伝えたいことがあるから書く、と書いたが、伝えたい相手は誰なのか。書く場所や方法が千差万別になっている今、その読者が誰なのかについても考えていきたい。