2023年5月13日土曜日

「TAR ター」(ネタバレ大有り、追記あり)

 ケイト・ブランシェットの怪演が話題の「TAR ター」を見てきた。


女優たちがみんなすばらしいのだが、正直、映画は面白くなかった。

これって、ターが男だったらただのパワハラセクハラ野郎だろ?

いやなんか最初は男の設定での企画だったって話もあるんだが、レズビアンの女性にしたからただのパワハラけしからん男の話にならなかったんだろうけど。

でも、ケイト・ブランシェット演じるターがレズビアンの男役なのか、トランス男性なのか、どっちなのかわからなかった。

コンサートマスターをパートナーにして、養女と3人家族になっているのだけど、養女に対して自分を父親と言ったりしているし、後半、おかしくなるともう見かけが完全に男。暴力もふるう。

前半も男っぽい服装や態度だけど、やはり女性である自分が男社会のクラシック界で成功しているという、女ゆえのメリットを享受しているようで、だから女でレズビアンというスタンスでいるけど、ほんとはトランス男性なのでは?と思ってしまう。

そして、もしもターがトランス男性だとしたら、男性としてのターはミソジニー野郎なわけで、まあ、パワハラセクハラ野郎はミソジニーだからまあ、そうなるだろうけど。

ターはまあ、とにかく、人間としては相当に困った人で、人間的な内面とか全然なくて、もう怪物としか言いようのない人なのだが、ベルリンに来たときに年上のコンサートマスターの女性に気に入られ、彼女の助言を得て成功していき、その後は才能ある若い女性音楽家を次々と愛人にして、みたいな人生を送っていたらしい。

そして、彼女たちは多かれ少なかれ、クラシック界でやっていくためにお互いを利用していたようなところがある。純粋な愛ではなさそう。自殺してしまう元弟子も、ターの妨害にあって指揮者としての仕事ができなくなったからなのか、ターの愛を失ったからなのかはっきりしない。まあ両方なんでしょう。指揮者をめざしているのに秘書をしている弟子も自分を副指揮者にしてくれると思ったら裏切られ、ターのもとを去るけど、この、指揮者をめざしているのに秘書をしているっていうのも私には理解できない。ターにくっついていればいずれ指揮者にしてもらえると思って尽くしていたんだろうけど、音楽をやっているべきときに秘書してるなんて、私にはほんと理解できない。クラシック界ってそうなの?

若い女性音楽家を次々と使い捨てていくターは若いロシア人チェリストに惹かれるけれど、このチェリストはターを利用しているだけで、あっけなくターは捨てられる。この辺、運命の逆転かな。このチェリストを演じる女優がビブラートをかけるシーンがプロみたいだったが、実は彼女は本物のチェリストだった。ターが彼女と初めて会食したとき、ロシア人だからロストロポーヴィッチを聞いてチェロを始めたのかと思ったら、YouTubeでジャクリーヌ・デュ・プレのエルガーのチェロ協奏曲を聞いて、といかにも今の子らしい答えで、高齢の副指揮者を時代に合わなくなってるとクビにしたのに、今度は自分がもう時代遅れになっているという。

まあそういうクラシックを知ってるとわかるところはわかるんですが、それを面白いとか言うほどではないんですよ。

というわけで、ラストについての疑問もあったので、ネットで検索してネタバレありの映画評をいくつか読んだところ、次の2つがなかなか興味深かった。

【ネタバレ】TAR/ター|あらすじ感想と結末の評価考察。賛否両論の難解映画でケイト・ブランシェットが〝権力の本質〟を体現する (cinemarche.net)

映画を詳しく分析していて、興味深い指摘がいくつもあるのですが、その中で、下の方に書いてある、ターがミソジニー男性だ、というところ、まったく同感です。

映画「TAR / ター」は意味がわかると怖い話 ラストの意味までネタバレ考察・解説 | カラクリシネマ-映画レビューブログ (tolkoba.com)

これはホラー映画としての分析が興味深いです。自殺した元弟子の幽霊が画面に映ってる、という指摘。そして、ロシア人チェリストのあとを追って廃墟に入ったあとからがターの幻覚による夢であるという解釈が紹介されています。

ベルリン・フィルを追われ、故郷に帰り(ここでリディア・ターの本名はリンダであることがわかる、つまり、彼女は自分をフィクション化していた可能性)、初心に帰って東南アジアへ向かう最後の部分。ここでターが高級マッサージ店で女性を選ぶように言われるが、1人だけ目を開いた女性を見て逃げ出してしまうシーンがある。ターはなぜ逃げ出したのか。私はあの目を見開いた女性が元秘書に似ていたからではないかと思う。ターを告発したのは元秘書だったから、あの目がターの罪を告発しているように思えたのではないか。上の2つのサイトでは違う解釈をしているけれど。

また、ラストの演奏会、ターが東南アジアのどこかでクラシックを普通に演奏するのかと思ったら、ゲームのイベントだったというオチ。これも上の2つのサイトをはじめ、いろいろ解釈があるようだが、これはちょっと私にはついていけなかった。まあ、ここは、ブランシェットつながりだと、「ナイトメア・アリー」ではないでしょうか(って、何を言ってんのか自分でもわからん)。

まあ正直、ホラーとしては「ブラック・スワン」みたいな方が断然面白いと思うし、キャンセル・カルチャーだとかジェンダーとかではそれほどではない気がするし、わかりにくくていろいろ想像させるところが多いのでそれが面白いっていうのはあるだろうけど、だから?って感じも強いんですよね。人を選ぶ映画でしょう。

そうそう、故郷に帰って実はリンダが本名だとわかるところ、自分をフィクション化してたと考えると、この映画全体が実はリンダがリディア・ターという人物になりきったフィクションの可能性があるのですね。つまり、故郷のシーン以外は全部、夢。そうなると、ゲームのイベントの指揮者っていうのもまた夢になるわけです。が、しかし、故郷に帰ったターが見るテレビが前世紀のブラウン管のテレビっていうのも不思議ですが、ベルリン・フィルの天才指揮者になった夢を見て、そのあと今度はゲームイベントの指揮者になる夢を見るという話なのか? なんかあの暗い室内のシーンがデイヴィッド・リンチの映像みたいなのも気になってますが、リンチ風の悪夢と比べるとやはりしょぼいのよね。

追記

この手の映画は必ず夢落ちで終わる、だからこの映画も夢落ちだろう、と思ってずっと見ていたのだが、結局、夢落ちではなかった。しかし、いろいろ考えると、やはりこの映画はターの故郷の家のシーン以外は全部夢ではないかと思う。

ベルリン・フィルをクビになったターが、アパートの別の部屋を売る人から、練習の騒音がうるさいと言われるシーンのあと、彼女が怒りの歌を歌いながらアコーディオンを弾いている(この歌はブランシェットと監督のトッド・フィールドの作詞作曲のようだ)。そして、故郷のターの部屋にはアコーディオンがある。

一方、故郷の家にはピアノはあるのだろうか。ターがピアノをみごとに弾くシーンは一度もなかった気がする。音大のピアノ科出身なのに。

故郷の家にあるのはブラウン管のテレビとビデオ。どう見ても20世紀末のままの部屋だ。そのブラウン管のテレビでバーンスタインの録画を見る。

ターはバーンスタインにあこがれたが音大に行くこともできず、そのまま妄想の世界に入ったので、だからあの映画の大部分は彼女の妄想なのではないか。

追記のまた追記

彼女の生まれ故郷の家が出てきたとき、こんな環境から音大へ進むのは大変ではないかと直感的に思ったのだが、彼女はピアノを習えないかわりにアコーディオンを習ったのではないか。私が子どもの頃、ピアノなどとうてい習えず、せめてタンバリンが欲しいと思ったのだが、親はそれさえ買えず、かわりにカスタネットを買ってくれたが、それがとても悲しかったのを今でも覚えている。