2019年12月2日月曜日

「失くした体」&「マリッジ・ストーリー」

映画の日はキネマ旬報シアターでネットフリックス映画「失くした体」と「マリッジ・ストーリー」をハシゴ。ここは映画の日もファーストデー扱いで1100円だった。
「ROMA」、「アイリッシュマン」とあわせて、これで4本、ネトフリ映画を映画館で見たが、このうち「ROMA」は明らかに映画館で見るように作られた作品だった。実際、ネトフリ映画になったのは配給段階で、他の配給会社が非常に低い金額しか提示しないのでネトフリに任せたとのこと。
今回見たフランスのアニメ「失くした体」もアート系のアニメなので、テレビっぽい感じはしなかったが、「アイリッシュマン」と「マリッジ・ストーリー」はどこかテレビドラマ的な感じがしてならない。映画館での上映をメインにしていたら、どちらももっと短くするだろうと思う。「マリッジ・ストーリー」なんかアダム・ドライバーとスカーレット・ヨハンソンの歌まで聞かせ、特にドライバーはえんえんと1曲歌いきるのだが(うまいけど)、ここで歌を披露する必然性はあまり感じられず、映画館だとちょっと余計な感じがする。「アイリッシュマン」もテレビで見ながら適当なところで止めてトイレに行くとか、そういうことができる環境の作品みたいなところがあるような気がするのだ。
もちろん、こうした映画館ではなく配信でテレビで見るような作りのせいで作品の価値が下がる、ということはないのだけれど、「ROMA」のように配信のことを考えず、映画館で見るように作った映画とのスタイルの差が歴然とあるように思う。

さて、ハシゴした2作品。

「失くした体」は切断された片手が自分の体を探して旅に出る話で、それと並行して手の持ち主の過去が回想のように描かれる。幼少期はモノクロの映像、成長してからと、手の旅の部分はカラー。
手の持ち主の過去は特に目新しい話ではないし、いろいろと既視感のある内容なのだが、アニメとしての表現が優れている。移動していく手の視点で描かれた風景が特にいい。この切断された手はなぜか、目と耳を持っているようなのだが。
カセットテープが重要なモチーフになっているので、時代は1994年に設定されている。手が眠っている持ち主のそばにたどり着いたあとの最後のエピソードが美しい。ただ、それまではちょっとグロなところもあるので、その点はご注意。

「マリッジ・ストーリー」は「クレイマー、クレイマー」の現代版。「クレイマー~」の頃は離婚した夫婦の片方しか子供の親権を持てなかったが、現在のアメリカでは両親が親権を持てるので、今回はその親権の割合が問題になる。また、「クレイマー~」は仕事一辺倒のビジネスマンと専業主婦だったけれど、「マリッジ~」は舞台演出家と女優というセレブたち。前者は仕事ばかりで家庭を顧みない夫と、家に閉じ込められた主婦の問題がテーマになっていたが、後者はある程度裕福な人たちだから高い弁護士を雇って泥沼化みたいなところはある(裁判官から、あなたたちほど裕福でない人たちが後ろに控えているから、と言われてしまう)。
「マリッジ~」の離婚する夫婦は最初、調停人からお互いに相手のよいところを書いた作文を読み上げるように言われ、その作文のナレーションから始まるが、妻の方が読み上げるのを拒否したため、調停人を介さないで2人で話し合って離婚しようとする。が、その後、妻が有能な弁護士を雇ったことから泥沼化。泥沼の内容は「クレイマー~」と重なるが、「クレイマー~」より深刻になっているのがミソ。弁護士の卑劣さがこれでもかという感じで増量されている。
結局、この夫婦はお互いに相手を理解していなかった、特に夫が妻の心の内を理解せず、自分の都合のいいように考えていたとわかるのだが、それでも、最初は財産にこだわらず、親権も半々でいいと思っていて、それは最後まで同じなのに、弁護士を雇ってからどんどん泥沼化していくあたりの離婚の大変さが興味深い。
いろいろなエピソードが入っていて、上映時間も2時間20分近いのだが、そのエピソードの並べ方がやはり映画館で見るよりは配信で見る感じなのかな、という気がする。これは「アイリッシュマン」でも感じたことで、映画館のリズムではない感じなのだ(映画館ならもっと切りつめたりメリハリをつけたりすると思う)。有名な俳優が何人も出ているし、きちんとした作りのよい作品なのだが、最初から配信用に作られた作品はやはり映画館用の作品とはリズムやテンポが違うと感じる。「アイリッシュマン」も「マリッジ・ストーリー」もアカデミー賞の作品賞候補になりそうだけど、この辺がどう評価されるのか。{ROMA」は最初に書いたとおり、もともとは映画館用に作られた映画なので作品賞ノミネートや外国語映画賞受賞に違和感はなかったし、「失くした体」もアニメ賞ノミネート&受賞しても違和感はないのだけれど。