2018年2月17日土曜日

「グレイテスト・ショーマン」

有名なリングリングサーカスの前身となるサーカスを作ったP・T・バーナムを主人公としたミュージカル。リングリングサーカスになったのはバーナムの死後のようだ。
このリングリングサーカス、昨年、146年の歴史に幕を閉じた。理由は象のショーをやめたら客が激減したからだそうで、現在では動物のショーは動物愛護団体から批判が多く、アメリカではもはやできないようだ。
かつてはサーカスというと、アメリカのリングリングサーカス、ソ連のボリショイサーカスだったが、今はカナダのモントリオール発祥のシルク・ド・ソレイユ。ボリショイは時々日本に来るが、日本の木下大サーカスよりもしょぼい感じで(少なくとも日本公演では)、かつての世界の2大サーカスも今や見る影もない? ボリショイも木下大サーカスも動物のショーをやっているが、今後はシルク・ド・ソレイユなどの人間だけのショーがサーカスの主流になるのだろう。

「グレイテスト・ショーマン」には「地上最大のショー」というせりふが何度も出てくるが、これはバーナムが使った言葉だそうだ。「地上最大のショウ」といえば、セシル・B・デミル監督の有名なサーカス映画がある。

「グレイテスト・ショーマン」はミュージカルであると同時にサーカス映画でもあるのだが、今では批判の対象になるフリークショーを肯定的に描いているのが珍しいというか、けっこうリスキーな企画だったのではないかと思う。
現代ではフリークショーは障碍者や異形の人を見世物にするということで否定的に描かれる(例「エレファント・マン」)。だが、この映画では、人前に出ることができず、隠されていた異形の人々がサーカスで仕事を得て生き生きとする、というふうに描かれている。当時としてはそれでよかったのだろうが、本物のバーナムは黒人奴隷を買って見世物にしたようだし、また、日本のアイヌの人々が見世物として出品されたことがあることを考えると、いくら今とは時代が違うといってもどうなのかなという感じはある。確かに芸人の仕事を得てよかった人たちもたくさんいたのも事実のようなのだが(「エレファント・マン」の主人公メリックも、実際は芸人として活躍し、本人もそれを喜んでいたらしい)。

映画ではバーナムは貧しい生まれで、裕福な上流階級の令嬢と恋に落ち結婚、異形の人々でサーカスを始めて成功する(映画だから史実とは違うところも多いだろう)。しかし、バーナムは上流階級にも認められたいという欲望があり、そのため、上流階級相手の劇を書いている作家を引き入れ、ヨーロッパの一流歌手のアメリカ公演を行う。その過程で仲間である異形の人々や黒人の芸人たちを見捨てるような態度をとるようになってしまう。
このあたりの上流階級(アメリカの場合、上流階級というのは貴族でなく、北東部の家柄のよい裕福な人々)と大衆の対比、上流階級の好む芸術と大衆の好むエンターテインメントの対比は紋切型とはいえ物語の王道。ただ、気になるのは、バーナムのサーカスを愛する大衆もいれば憎む大衆もいるように描かれているのだけれど、大衆の中にそういう分断があるということが描写不足で惜しい。彼のサーカスを憎む大衆が露骨に異形の人々を差別したり、建物に火をつけたりするのだが、サーカスを愛する大衆と憎む大衆の違いは何かということが置き去りにされている。
たとえば、「エレファント・マン」では、メリックを露骨に差別し虐待するのは貧しい人々だった。一方、上流中産階級の人々には偽善的な人と良心的な人の両方がいた。「グレイテスト・ショーマン」は逆に貧しい大衆の方に2種類の人間がいるような描き方をしているのだが、「エレファント・マン」に比べてまったくうまくいっていない。ミュージカルだからどうでもいいじゃないか、というのなら、なぜそういう大衆の分断を脚本に入れたのか、という疑問がわく。志は高かったけれどうまくいかなかったということだろうか。

主演のヒュー・ジャックマンは「レ・ミゼラブル」で歌唱力は証明済みで、この映画でも歌って踊ってはじけている。他の出演者も歌や踊りがみごとで、はじける歌と踊りのショーが満載。ミュージカルにはいろいろなルーツがあって、オペラ、オペレッタ、ショー、レビュー、バレエ、ボードヴィルなどがあげられるが、このミュージカルはショーやレビューの流れをひくものだ。ショーやレビューではストーリーはあまり重要ではないし、歌と踊りでつなげていけばいいのだ。その辺が人間描写を歌でするようなオペラ系のミュージカルとは違う。この映画はレビューとして見れば、歌と踊りの見応えのあるシーンが多く、満足できるものだ。