2013年3月13日水曜日

ローマでアモーレ(3)永遠について

「ローマでアモーレ」はむずかしいことなど何も考えずに楽しく見るのが一番、と思っているのですが、やはり考えてしまうものがあります。前回の「名声について」に続き、今回は「永遠について」。
ウディ・アレンという人は、人間は必ず死ぬ、ということに気づいてメランコリーになってしまった人らしいのですが、彼の造語で、「オジマンディアス・メランコリア」というのがあり、プレスの解説によると、オジマンディアスはロマン派の詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(「フランケンシュタイン」のメアリ・シェリーの夫)の「オジマンディアス」という詩から来ているとのこと。シェリーの詩はいくつか読んでますが、この詩は記憶にない。古代エジプトの王オジマンディアスの崩れかけた彫像を詠んだもので、この世に永遠のものはない、というテーマらしい(キーツの「ギリシャの壺へのオード」とは逆だな。シェリーとキーツは正反対の詩人で、シェリーはキーツをさんざん批判していたが、キーツが若死にすると、その死を嘆いて彼を讃える詩を作った。シェリー自身も若くして水死)。
前回はこの映画に現れる有名人や有名になることのテーマについて触れましたが、この有名のテーマと永遠のテーマは関連しています。特にロベルト・ベニーニのエピソードで、突然有名になった男がやがて忘れられるという話は、有名になってもそれは永遠ではない、ということを意味しています。
また、別のエピソードでローマの遺跡を若い男女が眺めるシーンで、「ローマ帝国はあんなに栄えたのに今は遺跡しか残っていない」というせりふがあるのも、どんなに栄えたものでも永遠ではない、ということを示しています。
人間は必ず死ぬと思ってメランコリーになったアレンは、その後、映画監督としてどんなに有名になっても、いずれ自分は忘れられる、自分の作品は見られなくなる、と思い、またまたメランコリーになっているのでしょう。
この映画ではもちろん、このメランコリーが大きな影を落としているのではなく、それもまたコメディの要素になっているのが面白いのですが、ここからは映画を離れて、アレンのいう「オジマンディアス・メランコリア」について、私はどう思うかを書いていきます。

実は私はオジマンディアス・メランコリアとはまったく無縁な人間です。はっきりいって、自分が死んだあとのことなんかどうでもいい。あとに残される人たちのことは気になりますが、自分の書いたものが残るとか残らないとか、むしろ残らない方がいいとさえ思います。
これは若い頃からずっと変わってなくて、理由は、どんな名作だって、人類が滅びたら残らないから。そして、日本語で書く以上、日本語を理解する人がいなくなれば、それは残らないから。
現在名作として残っている文学や芸術は、たかだか数千年前のもの。あと数千年もすれば氷河期がやってきて、全部なくなるでしょう。
だから、残る残らないで悩むより、今書きたいことを書くのがいい、と思って、いろいろ書き散らしてきました。書き散らしてきたので、出来の悪いもの、くだらないものもかなり書いています。
若い頃に知り合った人で、自分が死んだあとに出来の悪い文章が残るのをものすごく気にしている人がいました。この人は自分が死んだあとに自分が書いたよいものだけが永遠に残ることを望んでいました。なので、本をたくさん出している有名な評論家が亡くなって、死後に、生前に書いた出来の悪い文章が評論集に収録されたのを見て、まるで自分のことのようにメランコリーになっていました。自分はそういうふうにはなりたくない、と。
だったら何も残らないのが一番だと思うのですが、それはもっといやみたいで、死後に何かを残すことで永遠になろうと思うと大変だな、と思ったものです(だいぶ昔の話なので、その人が今どう思っているかは知りません)。
でも、たいていは何も残らないから大丈夫、なのですが、ネットのブログなどは書き手が死んだあとも残り続けているものがかなりあるようですね。